「美」はどこに

土曜日に開催したロケットストーブワークショップの開催中から降り続いていた雪は、昨日の朝には30CMほどの積雪となり、長野市内は本格的な雪一色の景色へ。
雪はさらに降り続き、今日の朝のマゼコゼ前の積雪はおよそ40CMぐらいになりました。
昨日、娘は大喜びで、「よ~し!かまくらつくるぞ!!」と張り切って雪集めしていましたが、雪は、かまくらも雪だるまもつくれないほどの完全なパウダースノーで、もう少し気温が上がって雪が緩むまで、かまくらづくりはおあずけとなりました。

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そんな昨日、「長野郷土史研究会」の総会記念行事 「世界から見た善光寺と門前町」 があり、この大切な行事に恥ずかしながら私(小池マサヒサ)も報告者の一人としてお招きに預かりました。

はじめに「世界から見た善光寺と門前町」と題した講演。講師は、東京文化財研究所文化遺産国際協力センター特別研究員の秋枝ユミ イザベル氏。
世界という視点から見た、善光寺と門前町の可能性とはいったいどのようなものであるのかについてを幾つかの視点からお話し頂きました。
『不変の軸を持ちながら変容を繰り返してきたまち、それが善光寺と門前町であり、これは数ある世界遺産と比較しても引けをとらない大きな可能性…』
この視点は大変興味深く印象に残りましたが、秋枝氏も言うとおり、こうした世界の注目に値する、「善光寺と門前町の価値を、いかに世界の言葉で発信するか」こそが、この町に暮らす私たちが共有すべき重要な課題だと思います。

その後、長野情報編集長の田川賀子氏からは、善光寺門前…大門町にある商業施設「ぱてぃお大門の商家と蔵」についての調査結果報告。
かつて門前にあった商家やそこにあった蔵についてのきめ細やかな調査内容は、さすが日本初の地域情報誌、長野情報!という充実した内容。
記録を残すことの大切さを感じました。
私の正直な感想として、妙に綺麗なだけの、何処にでもあるような商業施設…という印象が否めないのが「ぱてぃお大門」。
ところがそこに、「過去と現在を繋ぐ視点」を持ち込み、その視点をもって眺めることによって、そこにあるものは同じでも全く別のものとしての見えてくる。大きな資金を投入し集客する方法とは全く異なる、持続性豊かなまさにこれからの時代に無くてはならない方法だと思います。
「立ち位置を変えること」が如何に重要かと考えさせる報告でした。

そして私の報告…
事前に郷土史研究会から頂いたテーマが「なぜいま門前にひかれるのか」であったのですが、これについての報告というよりは、私が常日頃感じている、「門前にひかれる理由」を3項目に分けてお話しさせて頂きました。
それは次の3つ。

1:「美」は何処に ~感性の扉ある街~
2:「古い」「ぼろい」…だから楽しい。だから面白い ~想像し創造する力~
3:持続可能性(Sustainability)ある街をめざして

その1、「美」は何処に ~感性の扉ある街~ について。
昨日の講演会でのお話とは少々異なる点もありますが、大体は以下のようなお話をさせていただきました。

私たち「人」は「美しさ」にひきつけられる という本能的性質を持っています。
私が門前町にひきつけられていることに何らかの理由があるとすれば、それはおそらく、
門前町には私をひきつける「美しさ」があるから。
ただ、その「美しさ」とはいったい何なのかについて、今はまだ明確な答えを出すことはできていませんが、『門前町では美しさを感じることができる』…それは間違いない事実。それこそが私が門前町にひかれる一番の理由だと思います。

人それぞれがひきつけられる「美しさ」は様々ですが、
①「美しさ」とはいったい何であるのか?
②「美しさ」はいったい何処にあるのか?
という二つの問いは、この社会にとっての必要性として過去から現在まで、美術…あるいはArtが存在し続けているもっとも本質的な理由なのではないでしょうか。

英語のArtは日本語では「美術」あるいは「藝術」と訳されています。
そもそもは「藝術」という言葉は明治時代にリベル・アート(英語:liberal arts)の訳語として造語されたそうで、まだ150年間ほどしか使われていない近代の言葉です。おそらくは広く一般的に使われるようになったのは、戦後になってからだと思います。

そのliberal arts の由来は古代ローマにおいての「技術」arsにあるそうで、
arsは、「手の技である機械的技術」=アルテース・メーカニカエ(artes mechanicae)と、「自由人の諸技術」=アルテース・リーベラーレース(artes liberales)とに区別され、そのartes liberalesの英訳がliberal arts、さらにその和訳が芸術ということになるそうです。
ようするに、現在使われている芸術・美術は、大きくは「技術」ではあっても、手技や職人技とは少々異なる意味を持っているということ。
かつてローマ時代、哲学を中心軸とした、「人を自由にするための学問」を原義としたリベラルアートから繋がる芸術・美術だからこそ、
・「美しさ」とはいったい何であるのか?
・「美しさ」はいったい何処にあるのか?
…という哲学的とも言える問いに、常に向きあっているのだと思います。

明治時代以前…藝術や美術という言葉が無かった時代、そんな時代であっても、芸術的・美術的な何かは、過去から現在までずっとありつづけてきました。
現代人である私たちの視点かられば明らかに芸術や美術であるに違いない様々を、美術も芸術という言葉も無い時代を生きた人々が「何」と捉えていたのかについては定かではありませんが、そこには、日本と呼ばれる土地に暮してきた人々が、過去から現在まで脈々と引き継いできた「美」に対する意識があり、そしてそこにこそ「美しさ」とは何であるのか?についての答えの一つが隠れているような気がします。

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私が美術を選択するに至った理由について、今よりもう少し若い頃まではあまり他人に話すことはなかったのですが、最近ではそれを抵抗無く話すことができるようになった気がします。

私が美術…しかも彫刻という表現に魅了された大きなきっかけは、修学旅行に行った、奈良 東大寺南大門の金剛力士像との遭遇でした。今現在でもその仁王像の圧倒的な存在感は、私にとっての日本の彫刻の間違いなく第一位です。
高校卒業後、私は、美術…しかも彫刻を志し、長野を離れ東京へと向かいました。
長野を離れる直前、善光寺に受験合格祈願に訪れたおり、善光寺仁王門の仁王像を見上げながら、「この仁王像、あの東大寺の仁王と比較しても負けちゃいないよなぁ…」と思いながらまじまじと見あげたことは今も鮮明に覚えています。

あの時私が、東大寺南大門の金剛力士像に圧倒された理由はなんだったのでしょうか。
私にとっての運命的な出会いとも言える東大寺での出来事…。
「あの時のあの感じ」については東京に暮らし美術活動を続けるようになってからもしばらくは思い出すこともありませんでした。
大学を出て、画廊や美術館での発表活動しながら生活するようになって数年経った頃…、
自分の中に、これがArtなのだろうか?…自分が本当に求めるArtって何だろう?…という疑問が日々増大してくる感覚が続いていたある日、生まれ育った町にある、善光寺仁王門の仁王像のことが妙に気になったことがありました。
それは、私にとっての美意識の根底にあるものへの気付きだったのだと思います。
と同時に、あの時、突如として、私の美意識の上に覆いかぶさるように現れたのが奈良東大寺の金剛力士像だったのだということに気がついたのです。
その大きさに若干の違いはあるものの、自分にとって揺るぎない存在感であった善光寺の仁王像から感じていた美意識に戦いを挑むかのごとく突如として現れた「美」…
それが東大寺の金剛力士像だったのだと思います。

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東大寺南大門の金剛力士像は鎌倉時代に活躍した天才仏師、「運慶」・「快慶」らによる1203の作。
一方の善光寺仁王門の仁王像は、高村光雲と米原雲海 作で、大正8年(1919年)に完成。その時代差は実に700年。
この700年という時代差があることは事実でも、私の美意識においてはその差を全く感じることが無い…
それはいったいなぜなのでしょうか。

おそらくは、善光寺仁王門の仁王像をつくった高村光雲、米原雲海が、自分たちが生きている時代から700年も前の時代につくられた東大寺南大門の金剛力士像から。運慶らが生きた鎌倉時代よりさらにずっと以前からあり続けてきた善光寺という存在から。また、その善光寺と共にあり続けてきた町や人の暮しぶりの中から、過去から現在までを貫き、そして決して途切れることなく繋がり続ける、「不変的な美」を見出そうとしたからに違いない…と私は思うのです。
そしてそこにある何かこそが、町にしみ込んだ「美しさ」であり…その美しさへの気付きの瞬間こそが「感性の扉」なのではないかと思うのです。
小池雅久記

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