自然

善光寺門前の表参道は北国街道でもあたったことから、この一帯は門前町であると同時に宿場町の役割も兼ねた町…善光寺町とも呼ばれ、この善光寺町が現在の長野市へと至っている。

このまま東京で暮らすのか、それとも…。

超強力な東京という引力圏から外に飛び出すには、娘の小学校入学という超強力なエンジンを使わせてもらうしかない…タイミングはたった一回だけ。

私たち家族が長く暮らした東京から自分の生まれ故郷の長野へ半ば強引に引っ越すことを決意し…とは言っても、18歳で東京に行ったままだった私にとっての長野は、地図上の長野市よりずっと狭く限られた範囲。
そんな長野で暮らせそうだな…と思える場所となると、その範囲はちょうど自分の通った中学校の通学区程度の範囲とほぼ同じぐらいまで狭まってしまった。
結果、かつて善光寺町と呼ばれた町の片隅に暮らすことに決めたことで、ある意味必然的に、私たちと善光寺門前町との関わりは始まった。

昭和30年~40年初頭頃をピークとした善光寺門前町の賑わいは徐々に長野駅方向に向かって移行する。
中心市街地が駅周辺に向かって移行していった町は長野市に限ったことではないが、善光寺という地域の歴史文化遺産拠点から長野駅という交通・物流の拠点に向かって市街地の中心が移行することは、社会の近代化の方向性からしても必然であったと思う。
ただ、この必然は善光寺がこの地に置かれた1300余年前から続いてきた善光寺を中心とした町の歴史からすれば、これまでにはなかった大きな一大方向転換であったと思う。
そんな中心市街地、門前町では以前から…つい最近まで賑やかだと思っていた長野駅前でさえ、既にたくさんの空き店舗が目立つようになった。
買い物客は中心市街地から郊外へと向かって拡散し、中心市街地としての役割は年々曖昧さを増すと同様に、長野市は今後いったいどこに向かって歩もうとしているのかは全くわからない。

いわゆる中心市街地の衰退ぶりは今に始まったことではない。
自分が小学校に通っていた頃だから、既に30年以上も前には、中心市街地の空洞化問題は「ドーナツ化現象」と呼ばれて日常的によく聞かれるフレーズだったし、門前町からほど近い山間地の人口は減り続け、山村の小学校へ通う子供の数も減る一方だったことは子供だって知っていた。

中心市街地の衰退化と市街地の郊外化、中山間地の人口減少に伴う高齢化…、
こうした「今」はどれも30年以上前に始まっていたこと。
ほんの少しだけでも全体を見渡しこの町の未来を想像していれば、30年後の今はもう少し違っていたかもしれない…。
とはいえあれから30年。
中心市街地には巨費を投じた建物がつくられ、町並みは大きく変わった。
それなのに、中心市街地の衰退化は依然として問題視され続けたまま…。
中山間地の人口減少化や高齢化問題はさらに深刻さを増し、市内いたるところの商店街は疲弊し続けてしまっている。
町の活性化とはいったい何をして活性化と言うのだろうか。

これが経済。
経済が成長し続けるとはこういうこと…。
自分はそう理解している。

ここ最近、門前町はことさら元気をとり戻しつつある…といった感がある。
かつて、中心市街地の中でも特に中心であった善光寺門前町の賑わいが衰退して久しい中、新しいお店ができたり、町のそこかしこで賑わいが創出されたり、新しい住民が町に加わることは喜ばしいことだと思う。
…とはいえ、私たちが暮らす長門町(ながとちょう)の小学生はたった一人…我が家の娘だけ。今年から町の育成会は私が引き受けることになった。
門前町で暮らすという現実の中で、「何ともなぁ…」と思うことは多々あるけれど、光と影が交錯するような「今ここ」を感じながら、自分が次に向かうべきトコロを予感させてくれるのもまた善光寺門前町ならではの魅力だと思う。

かつて、善光寺門前町は長野市の中心だった。それは、長野市がいまよりもずっと小さかった頃、買い物をするにも映画を観るにも全てが此処にしかなかった時代。
門前町にはここにしかない、たくさんの便利さがあった。
やがて、今ある便利さよりさらに便利な便利さを求める人々は増え、便利さへの欲求は加速し、そして善光寺門前町は便利では無くなったのだと思う。

祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。

善光寺門前町はまさに「諸行無常」

現在の長野市が善光寺門前町の発展した町であることを思えば、この町が何を芯として共同体を築いてきたのか、どの方向に進むべきなのか、町とは何であるのか…について、善光寺門前町のそこかしこに感じることができるはずだ。
そう考えれば、善光寺門前町は既に門前に暮らす人々のためだけにあるのではない。

善光寺の周囲には何層にも重なる山々があり、その山々には山の人々の暮らしがある。
そうした山々を背景として善光寺が置かれその門前に町ができ人々の暮らしがある。

現代に暮らす私たちの視点はどうしても、国宝指定建造物である善光寺本堂を擁する善光寺、もしくは善光寺に極めて近い門前町にだけ気が向きがちだけれど、
そもそも、善光寺とは何なのか…人々は、何を求めて日本各地津々浦々からはるばるこんな山国の奥深くにある善光寺を訪れていたのかを考えてみれば、そこには日本人が持ち続けてきた死生観が深く関係していることに気付く。
もちろん、日本人が全てが同じ宗教を信仰していたわけではないし、同じ死生観を持っていたわけではないだろう。ただ、ほんの少し前までの日本人の大半が、土を耕しながら、日々自然と向き合って生きていた人々であったことを思えば、「人は死ねと土となって自然に還る」という死生観はごくあたりまえの捉え方であったのは間違いないと思う。
こんな自分でさえ…、土を耕してもいないし自然とはたまに関わるだけの暮らしをしている自分でさえも、「死んで土に還る」という表現に何の違和感も感じないのは、土を耕し自然と向き合いながら暮らしていた人々と同じ土の上、同じ時間軸の延長線上に生きているからに違いない。

そうした死生観を考えつつ、もう一度、善光寺とは何なのかを考えてみれば、善光寺の周囲にあるもの…善光寺のまわりの山々やそこから通じる川の流れや門前の暮らしも、これら全てが一体の「自然」であって、この自然そのものが善光寺として立ちあがってくような気がしてくる。

善光寺はもちろん善光寺をとりまく全体性、それこそが「自然」であり、私たちはその自然の中に生きている…「人は死ぬと土となって自然に還る」とは、「人も死ねば自然になれる」ということでもある。
それが成仏であり、極楽浄土とは自然の姿そのものであると善光寺は伝えているのだと私は思っている。

建造物としての善光寺、場としての善光寺はこの全体性を感じる為の中心点、視点、あるいは装置のようなもの。人々は善光寺を参拝することを通じて自分たちが生きているこの世の時間の尺度とは違う時間尺度、この世の範疇をはるかに越えた物事の捉え方、誰しもがやがて向かう「自然」という世界観を現生において体現し、自然との一体感を…、この世の全体性を感じようとしていたのだと思う。
それはまさに究極の持続可能性=sustainabilityの学びの場。
長い歴史の中、人間もまた自然なのだという意識の育みは続いてきたのだ。

環境を守る…あるいは自然を守る…という意識を持つことは大切なことだと思う。
けれど、自然と人間を別のものとして、自然は私たち人間の外側にある状態…という捉え方をしている限り、本当の意味で自然を守ることはできないと私は思っている。
そもそも私たち人間は自然と一体であらねばこの世を生きてゆけないのだ。
自然も人間も同じ生き物。同じ世界を生きている…同じ世界をつくっている。
命あるものはもちろん、土や石や水のような生命が宿っていないものも全て含めて、同じ世界を生きている…。
私たちは「今」そうした全体性こそが自然であると感じなければならないのではないだろうか。

善光寺はそうした意味からして「今」最も大切な役割を担うことができると私は感じている。
だからと言って善光寺への信仰心を持てと言うつもりはまったく無い。
信仰する心とは、強制されるものでも義務でもなく自然でなければならない。
けれど、善光寺に流れる全体性…空間性(周囲の山や川や人々の暮らし…)、時間性(伝説の領域も含めた歴史の流れ)を感じようとしなければ、単純にもったいないと思うだけのことだ。

私たちは「自分」という意識を持って生きている。
自分がある限り、想像は無限、想像は永遠に自由だ。
でも、この自分という意識を持っているせいで、生まれたまま…自然のままに…あるがままに生きてゆくことはとても難しい。
生きてゆく過程で、自分の中に沸き起こる欲望は、自分と他人を比較したり羨んだり恨んだり傷ついたり苦しんだりさせる。
こうした欲望が自分の中に生じることも、生きてゆく上での自然と捉えることもできるのかもしれないけれど、自分が自分であることに打ち拉がれた時、あるがままの自然によって助けられ気付かされることはとても多い。

私たちは全て皆、自然の中に生まれ、自然の中に生き、そして自然に還る。

善光寺門前町の背後には今も自然が満ち溢れている。

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