冬の芽

私の目の状態についてご心配を頂き、心より感謝しております。
現在は、少しでも症状が改善方向に向かうよう治療を続けている段階です。
いましばらくは、ご迷惑をおかけすることもあるかとは思いますが、どうかご理解ご協力を頂けますよう、今後ともよろしくお願いいたします。           小池雅久

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Karl Blossfeldt

こうして自分がこの病に接してみて思うのは、
あらためて、この世は目に見えないもので満ちている…ということ。

左の手のひらで左目を覆い、薄ぼんやり幕が張ったようなまま、ぼやけて見えにくい右目で雪原のずっと先を見つめながら足元の雪を握る。
手の中で融ける雪。
自分の中に流れる温かい何かを感じた。

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今から70年近く前に始まった日本の戦後は、「高度経済成長」という国策のもと、集団就職列車や出稼ぎなどによって、地方の労動力を大都市とその近郊に誘導することに始まった。これによって、都市にはヒト・モノ・カネ・情報が集まり、戦後復興の、今日の日本をつくりあげる原動力となった…と私たちは理解している。

しかし、それが国土とはいえ、生命と同様、部分を積み重ねても全体にはならない…生命とは一つの有機的なつながりで、部分の和とは異なるもの。
全ての生命は連鎖と関係のもとにあるはずだ。
今日の都市とは、国土全体のバランスを著しく破壊することによって巨大化、成立しているという事実を私たちは忘れてはならない。そして、何がどのように破壊されてしまったのか、それはつくり直すことは可能なのか、どのようにしてつくるのか…についてを、たえず生命という観点から捉え、実践してゆかなければならないと思う。

生命とは、この目には見えない。
私たちがこの世に生きながら生命に気付く為には、満たされすぎた都市の暮らしを目を閉じたまま、全身で感じてみる必要があるのかもしれない。

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都市と地方の格差問題は、少子高齢化という問題と連動して語られることが多い。
…子供の出生数が減少し、高齢者の人口は増加している…という人口分布からは、少子高齢化の傾向は見えるけれど、だがそれをそのまま少子高齢化問題として捉えることには疑問が残る。
今日の日本、とりわけ戦後の日本を必死に立て直してきた人々が歳を重ね、高齢となったことには、感謝こそすれど、そうした人々の高齢化を問題扱いすることはできない。
今後ますます進む高齢化社会においては、なによりも、高齢者に対する「感謝」「尊敬」の念を社会的に確立させる必要がある。そんなことは本来、確立するようなことではなく当然でしかるべきことかもしれないが、既に高齢が問題扱いされてしまっている現実社会においては、何らかの行動が必要になることはいたしかたないことだと思う。
いまのままでは、「姥捨て山」的な社会風潮は加速し、世代間の繋がりはさらに希薄になり、この世の生命バランスはいま以上、さらに崩れてしまう危険性がある。

…例えば、私が現在暮らしている長野市。
長野市には全国的に名の知れた善光寺や戸隠神社を始め、数多くの神社や寺院がある。高齢化社会においてはこうした神社や寺院の役割は極めて大きい…。当然それら数多くの神社や寺院を擁する長野市の役割も重要ということだ。
神社や寺院が観光客集めの装置としてあるだけではなく、この地に暮らす人々が、高齢者のみならず、全ての生命に対する「感謝」「尊敬」の念を持って生きる暮らし…その先頭に神社や寺院、そして長野市が立つことが望まれる。そういった姿は、この長野地域のみならず、地方と都市を繋ぐ重要な糸口となるはずだ。

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社会的に見れば、医療や介護のコストが増加するのは、今後社会の重要課題ではあるものの、それはそうした人々が高齢化したことが原因というわけでは無い。高齢化率が上がることが問題視されてしまうのは、本当の問題の解決策が見出せない…という深刻さがあるからだ。

本当の問題、それが「小子化」
生態学的、地球環境的、食糧的観点…から考えれば、地球人口は既に過剰であり、これ以上の人口増加はさらに問題を増加、加速させると言われているけれど、地球規模で見た場合の人口増加の問題を、生命とは一つの有機的なつながり…連鎖と関係の視点で捉えれば、日本における地方と都市の格差や少子化という問題と、地球規模の人口増加問題には関係があると考えるべきなのかもしれない。
地球人口は増加の一途、日本の地方人口は減少の一途…東京圏の人口増加が止まる数年後には日本の総人口の減少が始まる。

日本のいまを生きるためには、大なり小なりの差はあれど経済活動は欠かせない。
そしてまた、地方人口の減少、少子化という深刻な問題はこの国の経済のありかたに直結している。
地方の人口減少の大きな理由は、若者の働き口が年々少なく無ってきていること。
地方のみならず、この国の若者の人口減少は私たちの生きる社会にとって極めて深刻な問題だ。
地元に残る若者にしても、雇用が不安定で収入が少なければ結婚もできず子供も生めない…という現実が直面する。地方社会からの若者の減少は、地域に元気がでない最大の要因となり、結果として地域経済の縮小再生産を生む。

この問題を解決する為には、大きな側面では国策が…「これまでとは真逆の国策」が必要なのかもしれない。これを簡単に言ってしまえば、都市から地方へ「モノ・カネ・ヒト・情報」を移動させること…それは戦後復興の際にとった国策とは真逆の国策だ。
とは言っても、いま望まれるのは、かつて地方の衰退ぶりを憂い、総理大臣にまで登りつめた田中角栄氏が著した日本列島改造論では無いし、土建国家の地方拡散でも無い。
言ってみればそれは、「人を育む社会」に向けた国策ではないだろうか。
まずなによりも、若者が働ける職場、環境づくりは急務…。
地方での結婚・子供の誕生・安心できる子育て・教育環境の充実…などを、大胆に、真剣に国策として実現させるようでなければ、地方の人口減少、少子化に歯止めをかけることは極めて難しいのではないだろうか。

政治の役割は重要だ。けれど、国政であれ地方政治であれ、政治は政治家という専門家の職業になり…人々の暮らしから遠く離れてしまったことによってつくられる、“他人まかせ意識”が、地方と都市の間の格差問題や人口減少少子化という問題の根底に横たわっている。…私たちはあまりにも政治に無関心でありすぎた。
私自身ずっとそうだった。
政治に疑問も不信も感じるまでもなく、政治は遠いところに置かれたままだった。
「自分たちの暮らしについて自分たちが考える。」
「自分でできることは自分で行う。」
それがいつからだろうか…自分の責任を政治に転換するようになってしまったのは。

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私自身は既に若者とは言えないが、かつて東京から長野市に、家族と共に戻って暮らす想像をするにも、「仕事」は大きな障壁となっていたし、実際、こうして長野市に暮らすようになったいま、私の仕事がある意味で特種とはいえ、東京に暮らしていた頃に比較すれば仕事も収入も激減している。
ただ、これについてはある程度は想像していたこと…。だからこそ長い間、東京から離れることができなかったのが現実だ。
たくさんの人も物も情報も、そして金も集まるからこその大都市。
東京のみならず都市の引力は強大だ。
自分のこれまでを振り返ってみて思うのは、この引力圏から抜け出すには、それ相応の覚悟と決意が必要なのかもしれないということ…。
そして、都市を離れ、いま地方で暮らすには、「自分の働く場は自分で見出す力」が必要なのかもしれない。
夢や想いは人間を揺り動かす原動力…生命力の源だと私は信じてはいるけれど、残念ながら都市での暮らしと同じようにしているだけでは、地方では働く場は見出せない。

では、どうすれば良いのか…。
…私は、それこそが生命への気付きなのではないかと思う。
この世に満ち溢れる生命とは一つの有機的な繋がりそのもの…全ては生命と連鎖関係する網の目の中にある。
この世に満ち溢れる生命への気付きと共に自分の中に『いまここ』の感覚は沸き起こる。
都市に依存した暮らしから離れ、『いまここ』の感覚を信じて生きると決意したならば、必ずやその先に自分の働く場が見えてくるような気がする。

本来、政治とは、この『いまここ』の感覚を持つことから始まるのだと思う。
「いまここ」という瞬間から次の「いまここ」という瞬間へと繋ぐもの…それが「生命」あるいは「人」であるとすれば、政治とは「生命」もしくは「人」との対話…政治力とは生命と対話する力に他ならない。

美しいものがなぜ美しいのかを見抜き、その美しさ長く後世まで繋ぐ力…
そうした力を私たち一人ひとりが持つことでようやく、地方と都市は一つの有機的な繋がりを持った全体へと戻ってゆくのかもしれない。

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