サマーキャンプ

「おひさまと虹の学校・土曜クラス」のサマーキャンプに​、長野市から最も近い、飯縄高原キャンプ場へと出かけた​。
小学生以上の子供たち18人とその弟や妹が3人、そして​、親御さんたちを含めた大人が18人…合計約30人とい​う大所帯。
これだけの大所帯がたった一泊であるとは言え3食を共に​するということは、それは単なる集合では無く…むしろそ​こにつくられるもの…必要とされるのは、家族や村に近い​ものだと思う。
さらに言えば、たった一泊のキャンプであるからこそ、そ​れぞれの持てる力が…個々の得意不得意…自分が果たせる​役割がより鮮明になるものだ。
幾ら準備に時間を費やしたとしても、日常的に身体にしみ​ついていること以外でき はしない。
できないことが悪いのでは無い。できないことを幾ら積み​重ねても楽しく無くなるだけ…大切なことは、一人ひとり​ができることだけを積み重ねてゆくこと、それをその後の​日常に活かすきっかけとしてキャンプという場づくりはと​ても有効な手立てだと思っている。

子供たちは、日常とは違った空気感を全身で感じながら、この居心地の良さを如何に持続させるかを、頭では無く全身で考える。
一緒に遊んで、食事して、一緒のテントで眠る…といった時間をお互いが共有しあうこと。この「共同の場づくり」からの学びは、普段の学校での学びとはまた違った、大切な学びの場となることは間違いない。
そんな子供たちの姿を見ながら、大人たちも一緒になって自分にできること、すべきことを見つけ、子供たちの前で表現すること…その意味はとても大きいと思う。

「おひさまと虹の学校・土曜クラス」は、昨年の秋から始めた小学生にあたる年齢の子供たちを対象とした土曜学校をきっかけに、今年1月から3月の準備クラスを経て、5月から正式に開校したばかりの小さなフリースクール。
一か月に約4回の土曜日に、小学生にあたる年齢の子供たちが通っている。
あるきっかけで今年1月からこの学校に関わることになった私は、子供たちから先生と呼ばれることにいまだ大きな戸惑いを感じながらも、子供たちをはじめここに関わるたくさんの人々から多くを学び多くを考えさせて頂いている。

今回のキャンプは、土曜クラスのこどもたちの中から「キャンプに行きたい!」という声があがったことに始まった。
現在のところ、土曜学校での授業の内容は教師が決め、それを子供たちが実行している。
もちろん、学びの只中にある子供たちにとってそれも一つの方法でであるとは思う。
でも、この場が子供たちの大部分の日常である普段の学校では無い学校である意味をあらためて考えてみると、如何にして子供たちの自主性を汲みあげるかについてを、教師である大人、子どもたちの親、そしてここに関わる可能性のある大人たちがもっともっと真剣に考えなければならないと思っていた矢先のキャンプだった。

こどもたちの殆どは、日常、自分が暮らす市町村の通学区の小学校で学んでいる。
そんな子供たちが、長野市内をはじめ、あちらこちらの市町村から集まってきていることの意味はとても大きい。
日常的に通う学校の中では当然だと思っていたルールがここでは当然ではない…。
1年生から6年生まで全員が一緒に食事をする…。いつもなら怒られるはずなのに…と思うこともあるだろうし、先生のイメージが違うこともあるかもしれない。
それぞれにとっての日常が全てにとっての日常では無いということ。
この違いに戸惑いながら、自分を確認してゆくことは、この時期の子供たちにとって何よりも大きな学びではないかと私は思っている。

この小さな学校に通い始めた最初のきっかけは親の選択であったことは間違いないが、フリースクールである以上、学校とは名のってはいるものの、少なくともここに通うこと、ここでの学びは義務では無い。
ここに来たくなければ、やめるのは自由…本来、その選択は子供たち自身がすることだ。
…とはいえ、日常的に公立、市立を問わず、学校に通っている…通わされている?子供たちにとって、「ここに来る、来ないは自由…それは君たちが決めること」とは言われても、その自由さをいきなり子供たちに強要することは子供たちにとっての大きな苦痛にもなりかねない。
それを決められないのは、子供たちのせいでは無い。

子供たちは、この世を感じ、感じたままを生きている。
月並みではあれ、子は親の鏡…子供の行動を通じて見えるこの世界…いじめも、無気力も…子供たちは大人がつくりあげてしまったこの世界そのものを表現しながら生きている。
本来的には大人と子供の境目など決まってもいないし存在しない。
最近の子供があるのでは無い。それは最近の大人であり最近の私たちなのだ。

子供たちが「自由さ」に戸惑っているのであれば、それは私たち大人も「自由さを苦痛に感じている」と言うことかもしれない。
そんな大人たちから「自由について考えなさい」…と言われてもそれはできなくても当然…。大人たちにとっての苦痛の解決を子供たちが担わされるとしたら、それを拒否するのは子供としてあたりまえ…拒否は子供の当然の権利だと思う。

子供たちの空想の世界観を大人たちが賛美する姿を目にすることが多い。
けれど、私はその見方には否定的だ。
なぜなら、彼ら彼女らの空想の世界観は、大人たちが思う空想の世界観では無いと思うから。
確かに、子供たちの自由な発想に大人たちが感動を覚えることもあるかも知れない。
しかしその感動とは、大人である自分たちの空想が子供たちの空想とは異なるものであるかもしれないことを、忘れてはならないと思う。
子供たちの空想の本質を感じることができず、「子供たちは自由でいいよなぁ…」
「気楽でいいなぁ…」と言っては、子供たちの空想に大人たちが浸る姿を見るにつけ、それが一歩間違うと、大人が子供の空想に依存する…あるいは、子供たちに大人がつくり上げた子供らしさを強要してしまう危険性をいつも感じてしまう私…。

私は、子供たちはリアリティーの中に生きているのだと思う。
子供のたちの目に映るこの世とは、目に見える姿も目には見えないものを空想として語る様子も、本質的にそこには全く区別が無いのだと思っている。
大人たちが褒めたたえる、子供たちの空想の世界観は、子供たちにとってはこの世のリアリティーでしかない。
それを、大人たちが子供だけが持ちうる自由な空想の世界観である賛美しすぎることは、実は子供と大人の間に線引きをすること…
「あなたたちが感じている世界はあくまでも空想の世界なの。自由に空想していられるのはいまのうち…ほんとうの世界はそうじゃないのだけれど、私たち大人にあなたたちのその空想をしっかりと味あわせてちょうだい」…ってことにもなりかねない。
ようするに、子供たちを大人たちが利用することにもなりかねない。

大切なことは、子供たちの視点に立ってこの世を見ること。
子供たちの為…子供を大切にする…とか言って、子供の感性を大人の勝手に利用しないようにすること。

私たちは本来、誰も皆…、自由な発想と感覚を持ってこの世に生れてきた。
誰しもが、目に見えるものも見には目ないものも、全ては一体となってこの世の中をつくり上げているという感覚を自由に語ることができていた。
しかし、その自由さを持ち続けて生き続けるのは辛い。
見えない人に対して、それでもそれは在ると言い続けて生きることは、とても辛い。
見えない人はそれでもそれがあるのならそれを見せてみろ…と次から次へと迫ってくる。
そして、一人…また一人と、その辛さから解放されてゆく道筋。
それが、子供からが大人になる道筋なのかもしれない…。
やがて、かつては子供だったけれど既にそれを手放してしまった人々…大人たちは力づくでその自由な感覚を奪い取ろうとするやもしれない…。

「自由」を持ち続けて生きることは辛い。
でも、その自由は必ずあなたが生きる為に一番大事な力となるもの…だから決してそれを手放してはいけない。
これをどうやって、子供たちに伝えれば良いのか…。
それは、自由を決して手放さない姿を、この世に「自由はある」という姿を、子供たちに見せ続けるしかない…感じてもらうしかないのだと思う。

小池マサヒサ 記

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