「優しい関係」

「…ところで、どんなお仕事をされているんですか」と聞かれることがよくある。
そりゃぁそうだよな…って思う。

私の職業が美術家だと聞いて、そのまま納得する人がいることの方が不思議だ。もしもこの程度で納得して頂ける世の中であるのなら、美術家がこんなに貧乏であるはずは無い…とも思う。 だからだろうか、仕事や職業を尋ねられて「美術家です」と答えを返しながら、相手の顔色を伺ったり、こう答えるのは意地が悪いと思われはしないだろうか…と思う自分がいる。

社会学者の土井隆義は、現代に生きる若い世代が抱えている『生きずらさ』をとりあげつつ、その背景にあるものとは何かに迫っている。(「友だちの地獄」2008年 ちくま新書) 彼は、今を生きる若者たちが最優先する人間関係を、精神科医の大平健が(「やさしさの精神病理」岩波新書 1995年)指摘する、他人と積極的に関わることで相手を傷つけてしまうかもしれないことを危惧する今風の「優しさ」の表われとし、そうした関係を「優しい関係」と呼ぶ。 それはまた、他人と積極的に関わることで自分が傷つけられてしまうかもしれないことを危惧する「優しさ」の表われだと述べ、いずれにしても、かつての若者たちにとっては、他人と積極的に関わることこそが「優しさ」の表現だったとすれば、今日の「優しさ」の意味は、その向きが反転していると言う。

私が思う美術家という生き方とは、内と外との関係性によって築かれた自らの思考を作品とも呼ばれるものや行為に置き換え、そのものや行為をつうじて、「私はこう考えています…これを見てあなたは何を思いますか?」と問いかける役割を担った生き方だと思っている。

こうした生き方を選択した…こうして生きたいと望んだのは自分であって、誰かに頼まれたわけではないけれど、「美術家です」と答えるということは、自分と社会との積極的な関わりを露わにする…ということでもあって、しかも、それが自分の側だけに留まらず、「…さぁ、あなたはそんな私を見てどう思いますか?」と問いかけなければならない。 かつての若者にとっては、他人と積極的に関わることこそが「優しさ」の表現であったけれど、今日の「優しさ」の意味は、その向きが反転している…のだとすれば、 「美術家です」と答えるということは、他人と積極的に関わることで自分も他人も傷つけてしまうかもしれない不安を抱えこむ…という覚悟が必要だとも言える。 …ここ最近、美術大学には美術家を志す学生は激減しているそうだ。

…ということで、では私はほんとうのところどんな仕事をしているのか…?という質問にもこの場をかりてお答えしようと思う。
いまやっている仕事…。
・信濃町黒姫高原にある、築60年ぐらい?の古い開拓農家の家と土地を如何に改修し如何に使ってゆくか?という計画とその制作工事だったり、・岩手県葛巻町の山奥の元分校だった学校を使い、子供が育つ環境を考え実践している「がっこう」でワークショップをしたり、・「カフェってなんだ?」と思いながら、様々な人が様々な想い持ち寄れる場所を計画したり、つくったり、・住宅を、どうやって?誰が?つくるかをデザインしたり、・現在の教育では補いきれない学びの場づくり…している。

これらどの仕事にしても自分にはどうしても、その間にあるであろう関係性について知ることを欠かすことができず、どうしても考えることに多くの時間が費やされてしまう…。 とはいえ美術家だからといって、自分は心臓に毛が生えているような性格では無いと思う。 既に、とうの昔に若者の領域は卒業している自分ではあるけれど、この世の中に生きづらさを感じ、他人と積極的に関わることで自分が傷つけられてしまうかもしれない…という恐れは常に感じているような気もする。

周囲が呆れるほどに、「いったいなにしてるの?」…と思われる程に内側に籠ってしまうこともある。
でもこの世の中ずっと昼でもなければ夜でも無い。 …?? 何を書きたかったのか、わからなくなってきてしまったけれど、こうやってたらたら文章書いているのも美術家としての仕事の内だと思って頂けたらとても嬉しい…。

みなさん、ご迷惑をおかけしてほんとうに申し訳けありません。
精一杯やってもこんなもんですが、これからもどうかよろしくお願いします。

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