放す

自分が日々思ったことやずっと考え続けていること…自分の内に起こった心の動きなどはできる限り話すように…と言うよりは自分からできる限り「放す」ようにしてきた。
悪く言えばそれは責任の放棄のようでもあるし、良く言えば自分の言葉の自由を認めてあげるということになろうか…。

自分が放した言葉は、やがて何処かに…誰かにぶつかって、やがて自分に向かって跳ね返ってくる。そうしてそれを自分がつかまえた時にはじめて、自分が放した言葉は何を言うための言葉であったのか。言葉はどの
くらいまで届いたのか。今もなお返ってこない言葉は何か。自分はあれからどのくらい成長しているのか…がわかってくるような気がする。

だから、“言葉を放す”とは言ってはみてはいるものの、それはいずれめぐり巡って自分へと戻ってくるということ…それは昼と夜のような…言葉もまた循環の中に存在しているという現れ…であると言ったほうが良いのかもしれない。

なぜ…。
それはきっと、この世を生きている以上避けることのできない歪を感じているからではないか…と思う。
そうした歪をため込んでしまいすぎればやがては病気になるし、この世を生きていることさえ辛くなる。息のつまりそうな生きづらさや、どうしようも無いと思ってしまいがちないまここ…歪に悩み苦しむ私たち…。
でもきっと、この世がこの世としてあり続けてきたなかでずっと変わらずあり続けてきたもの、それも歪なのではないか。私たちは歪を感じることによってこの世を生きている。

重力は私という存在がこの世に生き続けるためには無くてはならないものだ…ただしその力は絶大。
岩にしがみつき、自分の身体が壊れるぎりぎりまで重力を感じながら、重力に挑みかかってはみるものの、力尽きやがて地面に叩きつけられる。何度やっても同じことだと知りながらも、それでもクライマーはそれを繰り返す。
その繰り返しの中でいま自分が挑みかかろうとしているものが見えてくるまで。

単に歪を歪として遠ざけたり無くしたりするのでは無く、歪をとことんまで引き寄せることによって、私たちが生きているいまここが見えてくるのではないか…生きずらさとは歪があるからでは無く、歪を避け、遠ざけ、そして隠そうとしているからなのではないのか…。

言葉を解き放つことによって言葉は歪み、やがてまた自分へと戻ってこようとする…その歪んだ言葉の先にいまここを生きる為に必要な力を私は感じる。

Siegrist sticks the move to Red Rock’s hardest climb, Secret 13 (5.13d).

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