先日、マゼコゼに来てくれた友人から、本棚の本を見ながら「若林奮は先生なの?」と質問された。
彼女はマゼコゼの客さんとして知りあった方で、私が勝手に友人と言ってしまっているだけなのだが…彼女も大学で絵を学び、いまは絵を教える側にいるからだろうか、会話の数は少なくともなんとなく通じあえるような…そんな気持ちを勝手に抱いてしまっている友人。
そんな彼女が若林奮が著した本を見て、私にそういって質問したのは、彼女も同じ本を持っているからということだった。
若林奮という彫刻家が亡くなってもうすぐ9年になる。
戦前に生まれ、その後の戦後という時代の真っ只…高度経済成長期に生きながら、常に日本の現代彫刻・現代美術を牽引し続けた彫刻家ではあっても、没後9年…時代はさらに加速度を増し変化し続けているいまという時代に於いては、たとえ美術大学の学生であったとしてももはや若林奮という彫刻家を知る者は少ないのかもしれない…Artに興味がある人や美術を学んでいるという学生に向かってあれこれと作家の名前を出して話しかけてみても、話しが続かないことに驚くことは少なくない。
もちろん、学生に限らず、私たちは皆、変化し続けるいまという時代を生きる為にどうすればよいのかを考えるは当然のこと…そう思うと、知識として作家の名前だけを覚えることにはさほどの意味が無いと変化するのも時代の変化なのかもしれない…。
でも、それがたとえ過去の作家だったとしても、作家がその時代とどのように向き合い、その結果何を残したのかを知ることは、いまを生きる作家が、“いまをつくるため”にとても大切な…大きな力になると私は思っている。
こうしたことはたとえ美術周辺に見え隠れすることであったとはしても、それだけいまという時代が、絶えず流れる時間の表面に見える出来事だけに人々の意識が集中しているということなのかもしれない…。
流れ去ったものを思って引き返してみたりすればたちまち流れの奥深くにのみ込まれてしまうのではないかという不安を絶えず抱えながら、時の流れの表面だけに意識を集中させなければいまを生きることは難しいと思っている人は多い。
若林奮は、人間と物質…ありとあらゆる自然の状態との境界にあらわれる空間や時間についてを思索し続けた彫刻家だ。
若林による、震動尺という作品は、そうした空間や時間の中に微かに現れる震えの瞬間を捉え続けようとした作家の執念の塊とも言える。
私はそんな若林の残した執念を思う時、若林奮という作家と自分との間に現れる空間や時間を感じる。
そして、決して止めることのできない時間…絶えず流れ続ける時間の中に生きている自分をあらためて確認しながらも、目の前にある時間や空間は自分という存在の働きかけによって確実に震動しているのだということを感じる。
そうした僅かな震動はやがて別の誰かが震わした震動と連鎖し、そうした震動の連鎖がいずれ、いまという時代、ここという場所をつくり出すことにつうじるのだ…と思う。
近いうちに、美学創造舎マゼコゼ では、「若林奮ノートを読む」という場を始めようと思っています。
ご興味ある方、是非ご参加ください。
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