善光寺の西の方角にある旭山は長野市街地から最も近い場所にある。
私が中学生ぐらいまでだからおそらくいまから30年ほど前までだろうか…旭山の中腹にある岩穴には観音様が祀られていて、新諏訪町側…中部電力里島発電所からの山道を多くの参拝者が一年中絶えること無く登っていた。
この観音堂までの山道は狭く急で滑落事故も多かったことから、旭山の南側の平柴に観音堂が移されてからはこの山道を登る人は殆どいなくなったけれど、私にとって最も身近な山は旭山であることはいまも変わりない。
先月、長野駅に熊が出没したという騒ぎがあった。おそらくその熊はこの旭山か、もしくはその奥に続く山から迷い出てしまったのだろう。
その理由には様々な憶測があるけれど、なにより、長野市とはそれほどに山に近いところに築かれた町であるということを私たちはすっかり忘れてしまっている…ということについて考えさせられる出来事だと思う。
かつて…江戸時代には善光寺領だった旭山。
善光寺本堂を建てる際にはこの山の木もたくさん使われているそうだ。
西後町にある「紫雲山頼朝院 十念寺」は、その昔、源頼朝が善光寺を参拝したおり、旭山の上にかかった紫雲と共に善光寺如来が顕れ、頼朝に十返の念仏を授けられたことから始まったと伝えられている。
石堂町にある「刈萱山西光寺」には、その昔、この町に暮らす木こりが古木と勘違えて切ってしまった、朝日山(旭山)にいたという大蛇、小蛇(おおにょう、こにょう)を祀る塚がある。
此処に暮らす人々にとってこの山がある意味がどれほどのものであったのかは、この山にまつわるたくさんの伝説や史実から窺い知ることができる。
かつてこの山が此処に生きる人々にとって無くてはならない山であったことは間違いなさそうだけれど、それはまた、この地で暮らす人々の生命とは旭山はもちろんのこと…それ以外の山も、山という生命…森という生命と繋がり続けているということを感覚的に理解していたということではないかと私は思う。
いま私たちは山から何を学んでいるだろうか。
熊がこの山から街に迷い出て来てしまったという事実から、私たちが此処で生きる為に必要なことを学ぶことができるだろうか。
山を生命として捉えているだろうか。
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