「inside outside」

531779_327463197373339_372837761_n
例えば…、お店に来たお客さんと話すなにげない会話が引き金になって、随分と前に経験した記憶が呼び起されるやいなや、それまで何の関係も無かったような出来事が次々と繋がりはじめ、二度と切り離すことはできない関係性が現れる…。

このような関係性とは、単に二つ三つの経験や情報が繋がって構築されるものでは無く、私と会話した人の声質や表情、その日の天候、窓の外を足早に通りすがるネコの姿、もっと話したかったら先におやつよこせ!と会話に割り込もうとする犬…もまた重要な要素であって、それらによってつくられる全体としての環境 が、自分の脳の何処かにしまい込まれていた過去の記憶や、未来への期待に響かせ震動させる。

「いま・ここ」とは、私に起こっていることを私が認識した思考の現れ…思考とは常に「いま・ここ」を出発点として過去や未来との間を行ったり来たりしながら一瞬を永遠へと変える力を持つものだ。

かつて『表現』に惹きつけられ憧れ、いまもなお美術…あるいはArtに魅了され続けている私ではあるけれど、「表現すること」とは美術のためでもArtのためでも無く、「いま・ここ」を生きるため…に近い。
あるいは、それは自分の内側と外側との間となる境界線…境界面として現れるもの…。それが無いと自分は自分自身がつくり出した思考の中に埋没したまま身動きすることすらできなくなる…そんなものに近い。

表現に惹きつけられ憧れ、美術あるいはArtを自分の「いま・ここ」を映し出す『場』として意識するようになった。
そうして見えてきたのは…経済が成長する過程とは、人間力や生命力が衰退してゆく過程と同じ方向・角度・速度で進行する傾向にあるということ。
…だからと言ってそれがそのまま、経済成長=人間力や生命力の衰退という意味ではないけれど、経済は私たちの「思考」を停止させる傾向にあるものに寄り添って成長を繰り返す…あるいは、私たちをその場に強引に止まらせる…拘束する力を持っているということは忘れるべきでは無いと思う。

表現がArtへと変貌する過程にあるもの…。
自分は少なくともArtにしろ美術にしろ、それをentertainmentとして捉えてはいない。
「表現」が全てArtである必要は無いけれど、Artとしての表現には既にentertainment経済がしっかりと寄り添っていることは事実なのだ…。

その表現がArtなのか?…Artでなきゃダメなのか?…それがArtである必要性があるのか?
そんなことを考えるまでも無く表現する者たちの姿を前にした時、心の奥底で何かが響き震動している自分に気付く。

ヒョウ柄のストッキングを頭からかぶり、真っ赤なスプレーで消費社会の象徴ともいえる広告モデルたちを殺すゼウス…。
「人々は誇大広告のもたらす潜在的な影響力に気づいていないんだ。僕は赤いスプレーで広告モデルたちの額に点を打って“殺す”ことで、広告の力を剥奪するんだ」
“都会の山岳部隊”と名乗り、高層ビルのトップに「タグ」を残し続けるピグメウス。
廃材を利用し、あらゆる場所に無断で住居を建設することで消費社会に反抗する、アダムス&イッツォ…。

彼らのそれがArtであるかどうかなんてことは一人ひとりが考えればいいことだ…。
だがそこには明らかに表現がある…と私は思う。
そしてまた、「いま・ここ」にとって最も重要なことは、
一人ひとりが思考する力を取り戻すこと…。
「いま・ここ」を生きる力を奪おうとするものが何であるのかを知り、それに対してきちんとNOと言うことではないだろうか。

「Inside Outside 」
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=vun217yVb5Y

マゼコゼにDVDあります。
近いうちに、これでも見ながら話しましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です