「図書館&ギャラリー」

マゼコゼの店の看板の下にもう一つ…小さな看板らしきものがある。
それは私たちが東京 国立市で運営していたPlanterCottage(プランターコテッジ)で使われていたもの。
建物の老朽化による取り壊しと同時に13年間の活動を終えたのが昨年5月。
6畳一間と4畳ほどのキッチン、一坪ほどの元風呂場を改造した小部屋、トイレ、天井裏につくった屋根裏部屋 からなる小さな空間にあった荷物を片付け、そうした荷物と一緒に長野に持ち帰ってきたのがその看板。
赤く塗った木の板に白い字で「図書館ギャラリー」と書かれたその小さな看板は、私たちが長野市に移り住んだ後、仲間たちがつくってくれたもの。
私と妻がつくったその場所ができて3年目だったか。
娘が生れ、自分たちが生きてゆく方向を…自分たちがここでできることはいったいなんだろう…と考えた末に出した答えが、PlanterCottageを「図書館ギャラリー」にするという選択だった。

私たち家族が国立市を離れて4年、PlanterCottageの活動が終了して約1年。
PlanterCotattageで私たちが何をしようとしてきたのか…、13年という年月をつうじてあの場が私にとって、そしてあそこを訪れる様々な人々にとってあの場が何であったのかを説明することはとても難しいけれど、半ば強引に仲間たちにあの場の全てを押し付け、私たち家族はそこから250kmも離れた長野市へと勝手に移り住み、新しい場づくりを始めた。それはPlanterCottageという種がここではどんなふうに育つのか、どんな花を咲かせるのかをみてみたいと思ったからだ。
…。
それは自分の…美術家のエゴだと言われてもしかたないと思う。
手入れもままならない厄介な植木鉢を仲間に強引に押し付けて…
家族を道連れにしてまで見たいものなどあるのか…。
もしもそれがあるとしても、そうすることにいったいなんの意味があるのか…。
それを説明することもできないままに、やらずにはいられないこの衝動を抑えることもできない自分とはいったいなんだ。
幸福は近づいているのか遠退いているのか。
そもそも幸福など考えたことがあるのか。
つくることによってたえず矛盾と不安を抱え込み、腹も懐も満たさなかろうが夢を語り続けるその瞬間に…ほんの一瞬だけ感じるあの何かに「生」を感じ…その一瞬を感じることでしかこの世を生きていると実感できない自分とはなんだ。

長野市に暮らし始めて5回目の春。
「どうしたら可愛くなるかなぁ。」
今日 娘は友達とお花見するんだ…といって、朝早く起きて妻と一緒にお弁当をつくっている。

それぞれの生を感じながら生きている。
種はようやく根付きはじめたのかもしれない…と思う春の朝。
マゼコゼも少しずつ「図書館ギャラリー」になってゆくのだと思う。

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