「信濃国」

先週 4月25日、私たちが暮らす長門町内にある長野天神社の春季例祭が執り行われた。
長野天神は、善光寺 門前のまち…長門町、西町上、西町南、の産土神。
長門町はその昔は天神宮町と呼ばれていたそうだ。
善光寺の南側、天神社があるこの付近は長い傾斜地…裾野が続いていたことから古くから長野と呼ばれていたそうで、この地にあった産土神は、近辺の商家の子供やそこに奉公する子供たちが学ぶ寺子屋が多くあったことなどから、やがて学問の神でもある菅原道真を祀る天神社…長野天神社へと変化していったのではないかとのこと。
善光寺門前のまちにはここの他にも、立町、桜枝町、上西之門町、伊勢町、新町など…たくさんの天神社が祀られている。
明治時代に入り長野天神社の北側、長野町にある西光寺に県庁が置かれたことによってこのあたりの地名であった長野が県の地名となったということだ。

その昔、戦国時代のころにあった信濃国は江戸時代になって中小の播に分割されたものの、明治時代の廃藩置県によって「信濃」に戻るのか…と思いきや、長野県となってしまった。その経緯についてはあまり知られてはいないけれど、信濃ならまだしも長野とはなんてことだ!と思う人々は未だに多く、長野県と呼ばず信濃や信州と呼ぶ人が多くいる。

信濃国であれば意識はまとまることができるのに、長野県だと分裂してしまう…という不思議さ…。
他の県に生まれた人々からすれば理解しずらい感情かもしれないが、それはすなわち、ここに生きる人々の郷土に対する並々ならぬ愛情があるが故に起こるまっとうな感情だと思う。
山や谷ごとに大きく風土が異なるこの地に生きる人々にとっての地名とは、この土地に生きることの厳しさ、辛さを承知のうえの、自分たちの選択する生き方に対する自信と決意のあらわれではないだろうか。
そうした感情を指して国家主義や国粋主義を肥大化させ国家権力の暴走を煽るようなナショナリズムへと繋がるのではないか…と不安がる人もいるけれど、私は全くそうは思わない。それどころか、こうした郷土を想う気持ちこそが「自分のことは自分で考える」…「市民自治」に繋がるはずだと私は思う。
それは、いまここに生きる為に欠かすことのできないアイデンティティーそのものだと…。

土地の産土神に土地の呼び名を付けるのは土地の神に対する真摯で崇高な気持ちのあらわれであることは誰もが納得することではあるものの、時に自分たちが暮らす土地を語る地名がいまも長野県に暮らす人々の感情を逆撫でしたり、意識の分断の要因となることもあるのだと思うと、なんとも複雑な気持ちにならざるを得ない。

長野県をもう一度、信濃国に戻すこと…。
そんなことをして何が変わるのか?…と思う人もいるかもしれない。
でも私は、それは長野県民のみならず、いま私たちに欠けている何かを取り戻すためのとても大きなきっかけになるような気がしてならない。
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