『山暮らし まち暮らし』

明日 7月20日は、自分が授業コーディネイターとして関わっている、しののい まちの教室 初めての授業開催日。
定員にはまだ余裕があるそう…興味ある人は是非どうぞ。
自分で言うのもなんですが、講師としてお呼びする香山さんには是非とも、そして自分にも。 いまここ で会っておいて損はないと思います。
http://shinonoitowncampus.net/

明日の授業は、『山暮らし まち暮らし』

もう授業は明日のことだし、明後日は選挙だし、
この授業について別の角度から話してみようと思う。

授業コーディネイターとは何をすれば良いのか…未だわかってはいないけれど、この授業を考えるにあたってまず自分が思ったことは、
ここは…長野は「まち」なんかじゃない…ってこと。
ここは、どこまで行っても「山」なんだってことだった。

…ほら、振り返って見てごらんよ。
ここにはずっとずっと山しかないんだよ。
山から太陽が昇って、山に太陽が沈む。
おれら、みんな山に暮らしてんだ。
その山に線を引き、私は「まち」に暮らしている って…それっていったい何が言いたいんだろう…って思った。

山で何が悪い?
「まち」じゃなけりゃ何がダメ?
閉鎖的?
…それは、山に守ってもらえているってことでしょ。
山があるから俺らはいま好きなことやってられるし、好きなこと言っていられるんだよ。
もう前とは違うんだ…。
福島があんなことになっているのに、「山」に守られている自分たちがこの山に感謝しないでどうすんの?
それでもまだこの山の中に「まち」が必要?

高校生の頃…自分はここが「山」であることが嫌で、とにかく「まち」に出たかった。
それからいろいろあって、随分と長く東京に暮らしてきてしまったけれど、娘の成長にかこつけてなんとか長野に戻ってきてみると、やっぱりここは「山」だと思った。
「山」はいいなぁ…って思った。
でも、ここに暮らす人たちは、自分を見て怪訝そうな顔をする。
どうして戻ってきたの?
ここにはあなたの仕事はないでしょ…って。

その意味がやっと最近になって少しだけわかってきたような気がする。
高校生だった自分が感じていた、ここが「山」だということも。
自分がここに引いた線が何だったかってことも。

しののい?…まち?…教室?
なんじゃそりゃ…って思った。
でも、篠ノ井と同じような「まち」が日本中のあちこちにあることこそが、とても大きな可能性かもしれない…って思った。
みんな、そうなんだ。
いまここ がどこなのかを知ることは難しい…。
自分なんか、こんなに時間がかかって、ようやくここは「山」だって言えるようになってきたんだから…。

縁がありこの場づくりに加わった自分だが、たまたま最初の授業を担当することになったことで、多少の責任のようなものも感じないわけではないが、でもそんなことよりも、この場づくりに限らず、自分がいま関わっていること、これから関わろうとしていること、自分の意識が反応する様々が、どれもみな関係しあっていることを強く感じる。

結局は自分が選択しているのだからあたりまえ…と言われれば、確かにそれもそうかもしれないけれど、でも、いまここ が発する気配…というか、自分を揺り動かしている原動力…というか、ヒトやコトやモノがつながりあってゆくこの気配の奥底に、自分の意識をはるか超越した…いま たまたま自分を通過中の、延々とつながり続けようとする生命の本質のようなもののしたたかさを感じずにはいられない…。

おい俺、何やってんだ?
俺、こんなことしてていいんか?
・・・??
何か返事ぐらいしてくれりゃいいのに…。
自分の中のずっと奥深くの何かは、何にも言わない。
ただただ自分と何かを黙々とつなげようとする。

だからもう、自分の中のそいつに逆らうのはやめにした。
こうやって生きることを望んでいるのなら、あとどのくらい残り時間があるのかはわからないけれど、自分の中のそいつと最後まで一緒にこの世を生きてみようと思う。

ということで明日、もしよければ、しののい の山でお会いしましょう。
http://shinonoitowncampus.net/

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