『線をまたぐ』

先週末の20日。
しののいまちの教室の初回授業が終了した。
http://shinonoitcn.naganoblog.jp/
いま自分が何を見て何を感じているかについて、あらためて気が付くことができた貴重な時間をいただいた。
受講生の方、講師の方、スタッフの方に心からの感謝。

今回の授業は、私たちの心の中にある「山」と「まち」という感覚についてを…、
私たち一人ひとりの内にあるその感覚が社会に対してどう作用しているのかについてを考えてみたいという私の個人的な興味からスタートした。
そのためにまず、「山に暮らし、山で仕事する」という視点、「山」とは何であるのか…ということから出発することによって、私たちが知らず知らずのうちに線引きをしていること…自分がそのどちらかいっぽうの領域にいることによって安心を得ようとしているのではないか…という投げかけから始めてみることにした。

もちろんこの投げかけは、私がそう思っているからの投げかけであって、私にはそうすることによってつくられている結果が私たちが生きる いまここ(社会)であること…
そしてまた、もはや私たちはこの線引きを続ける限り、本当の安心はけっして得られない…という想いがあるからだ。

それぞれの事情を鑑みることにばかりに徹していては、私たちはもうこの先を生きられない…。
誰もがみなそれを心の奥底で感じていながら、どの方向にどうやって一歩を踏み出して良いのかがわからないのら、そのことについてとことんみんなと話してみたい。

いま、日本一の山国である信州に暮らす自分としては、次に踏み出す一歩は、山とまち という境界線をまたぐこと…。
山とまちを何度も行き来して、そんな線は何処にも無いことを示すことなのではないか…と思うのだ。

山村の過疎高齢化…。
いまもそれは進行している。
山に暮らす人は少ない。
それは紛れも無い事実ではある。
でもしかし、山は既に変わり始めている。
もはや山村はどうしようも無い状況だ…なんて台詞は過去のものだ。
さも深刻そうな報告をテレビや新聞や雑誌をとおして見ることで確認しているのは、
「あぁ、やっぱりここがまちで良かった…」ということ。
そうやって「山」と「まち」の間に引かれた線をますます明確に、ますます太くするだけであることに気付いてほしい…。
「まち」であることの恩恵が強調されればされるほど、「山」を切り捨ててしまっているのではないか…という想いは次第に遠退いてゆく。
それは、この長野市だけで…ここの山とまちの間だけで起こっていることじゃない。。
この国の何処もかしこもが、線で分断され「山とまち」になってしまってている。
そうした山から出てくる野生の生き物による被害を、獣害と呼ぶ私たち…山に生き続けようとする生命からの声を聞かず、それを害と呼び駆除する私たち…。

山村の過疎高齢化はいまもなお進行している。
でもそれは、調査が開始された日からの数値変動の値にすぎない。
そうした山にいま何が起こり、そこでは誰が、どういう想いを抱いて生きているのか…それがなんであるのかが「山」の事実、現実ではあるものの、事実や現実は情報化された瞬間から歪曲しはじめ、受け手の都合に対して収まりやすいカタチへと変化する。
メディアのあり方に問題が無いとは言えないが、問題の本質は情報メディアのあり方ではない。
情報を受ける私たち自身がただじっと机の前に座ったままで世界を把握できていると勘違いしていること。それこそが現代の歪を産み出している最大の要因ではなかろうか。
どんななに情報通信網が整備されデータ通信料が増えようが、そこに在るものを此処へと送ることはできはしないのだ。
ドラえもんはそのことを私たちに伝えてくれているではないか。

「山とまち」の間にある線を越えられるのは情報じゃ無い。
意思を持った私たちのこの体だけが、その線を超えられるのだと私は思う。

そうすればきっと誰もが思うはずだ。
その間にあると思っていた線は何処にも無いことを。
山とまちはつながっていることを。
ここなら生きられるかもしれない…と。

1006294_403999046386420_1071181480_n_512

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です