信州 信濃 善光寺の門前町にある我が家は、坂の途中にある。
善光寺門前町とは何処までなのか…その範囲は定かではないが、緩やかな山裾と折り重なる山の境界付近に善光寺があり、その前に開けた町であることからすれば、私の家もまた山の途中…山の入口付近にあるということだろう。
善光寺の山号は「定額山」(じょうがくさん)
寺や神社のすべてが山中にあるとは言えないものの、仏教伝来以前から…ヒトが生きるために必要な大半、狩猟、採取、水源、その他全てを山に依存して暮らしていた私たちの祖先にとって、山は強力な力を持った霊や神がいる場所であり、山を怒らせれば不幸があると信じていたであろうことは容易に想像することができる。
民俗学者の柳田国男の『先祖の話』の中で、「人が死ねばその霊は、家の裏山へと昇っていくということをごく自然に信じていた」と書かれているように、死者の魂(祖霊)が山に帰る「山上他界」という考えや、山に対する畏敬の念は、日本の仏教のみならず、この地に暮らした人々にとって当然の、無くすことのできない感覚であったはずだ。
そうした宗教観、死生観はまた、現代に生きる私たちの思考や行動にしても深く影響を及ぼしているはずではあるが、古来、人跡未踏の地であった山岳ゆえに成立していた山岳信仰の地もいまや誰もが行ける観光地と化し、自らの生き方を律するといった山の役割は無くなり、もはや山に対する畏敬の念は無いに等しい。
そこが人跡未踏の地であればあるほどに、神聖視し崇拝の対象とした…目には見えない大きな力をそこに感じようとした、かつての人々。その想像性、創造性は、現代に生きる私たちのそれをはるかに超えるものだ。
しかし、そうした地であるからこそ、そこには手付かずの宝が埋まっていると考えるのもまた人間…。
だからこそ、山に依存して暮らしてきたからこそ、何人たりともそれを独占してはならないことを知っていた人々は、人々が争わないための方法や、この世の全てが繋がりあっている法則を山をつうじて深く理解し、山は平等であることを語り継いできた。
そうした人々の想いの集積地、それが山だったはずだ。
山を神聖化したり、崇拝の対象としたのは、いま流行りの単純なスピリチャリティーからでは無い…単純にこの世の苦しみから逃れよう、救われようとしたのでも無いのだと思う。
おそらくそれは、私たちは誰しもが、自らの心の奥底に、全てを破壊しつくしてまでも欲を満たそうとする何かが潜んでいるということを知っていたから…そうした人間であることを認めたうえで、それが何であるのかを知り、その何かによる暴挙を許さないようにするためであったことを私たちは見落としているような気がする…。
時の権力者による命令のようなものはあったにしろ、その権力者をも厳守せねばならぬ決まりごと…たとえば憲法のようなものが無かった時代に、生きとし生けるものもの、この世の全てが関係しあい、持続可能であるための方法を、人々は山で考え、その想いを刻みつけた行動…それが山岳信仰であったのだと私は理解している。
かつて明治政府が発した神道と仏教の分離を目的とした神仏分離令や大教宣布は、直接的に仏教排斥を意図したものではなかったものの、結果として大規模な廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる政府主導の愚行へとつながっていった。この動きはやがて神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して強力な国家神道をもたらしたが、ことさら山岳信仰はこの時期に徹底的に排除されたという…。
その理由は様々考えることができるが、山という姿はあれど破壊しようの無いもの、姿かたちの無いものが持つ絶大な力を当時の政府は極めて深く理解していたゆえに、山そのものに対して畏敬の念を抱くこと、そうした精神性をことごとく破壊しようとしたのだろう…。
そのことについてを、いま私たちはもっと知るべきだし考えるべきたと私は強く思う。
その時代から100年以上…その間に世界大戦は二度起こり、ここも世界も大きく変化した。
いまこの地を他国の侵略から守るためにどうすれば良いかで揺れている…。
原発がここまで深刻な問題となっている理由も、他国からの侵略をどう防ぐかという問題と直結しているからに他ならない。
世の中はより複雑化ていると言われてはいるけれど、私にはそうは思えない。
いま世の中は極めて単純化している。
それは、見えざるものに対する畏怖・畏敬の念が生じているかいないか…。その二つの対立軸がこの世界を形づくっている気がする。
もはや宗教が見えざるものについて語る役割を担いきれなくなってしまってしまっているいま、私たち自身がもう一度「山」の入口に立ち、「山」を見る時期が来ているのではないか。
山を背にして都市ばかりを見る時代はもう古い。
これからは「山」の時代…いや、もう既に山の時代は始まっているのだと私は思う。
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