句読点

8月はいまを生きる私たちにとって大切な月
あれから68回目の夏

私が生れたこの国であった戦争。
68年前、あの年の8月。
広島と長崎に投下された爆弾。
そして戦争は終わった…
私たちはあの戦争が終わったことにしていまを生きている。

あの夏から、歴史の時間軸は戦後を刻み始めた。
戦争の勝者の論理。その論理に従わざるを得なかった者たちの都合によって歴史の時間軸に記された句読点。
その句読点によって区切られた戦後という時間。

あの日、あの爆弾はなぜあの場所に落とされたのか。

それについて、納得できる明確な答えを聞いたことがない。
なぜ。

この国は戦争をして負けた…戦争は終わったと聞かされて育った私。
戦争を知らない私。
あの日あの場所に爆弾が落とされたのがなぜなのか を知らない私。

あの日という句読点。
あの日を記した句読点は、私たちの心の奥底に戦争に負けた国の民であるという意識を深く刻みつけた。
戦争に負けた国に生れた私。

多かれ少なかれ、私たちはみな、その意識を持って戦後を生きてきた。
そうでなければ、あの戦争に赴いたまま、この世にでは無くあの世へと還っていった人々の想いを未来へと繋げない…そう思ってきた。
でもしかし、私にはどうしても戦争が終わり、戦後を生きているとは思えない。
あの戦争があった時代といまは、何か重く厚い壁によって隔てられたままであるような気がしてならない。
人々の心は分断されたまま…何処かに置き去りにされてしまったままのような気がしてならない。

戦争があった国に生れた私。
戦争を知らない子どもたち。

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追記

マゼコゼでは、私たちが所蔵する本をご覧頂けるようにしています。
昨日と一昨日、
マゼコゼで開催した、たなかぱんだ 第二回公演 「父と暮せば」
客席の後方で照明を担当していた私は、あの戦争が、あの日あの爆弾が落とされた理由が、ステージの照明と共に、ぼうっと浮かびあがってくるような気がしました。そして、マゼコゼの本棚にある、一冊の本を思い出しました。

丸木俊 え・文 「ひろしまのピカ」

この本の終わりに、「この本にそえて」という、丸木 俊さんの文があり
ます。その全文を掲載させて頂きます。

「この絵本にそえて」   丸木俊

もう27年ほど前になるかと思います。北海道の小さな町で、「原爆の図」の展覧会をしておりました。わたしは受付のところにいて、「原爆はやめてください。戦争はやめてください」と言いながら、お名前を書いていただいておりました。
ひとりのおばあさんが入ってきて、怒った顔をしながら、会場に急ぎ足で入り、じっと絵をみていました。
しばらくすると、中から出てきて言いました。
「人の悲しみを絵に画いて見せものにしとる。そう思って、わたしは展覧会の前を通りすぎました。でも「いや、まて」とひきかえしたのです。「見てやるものか」と、また通りすぎ、何べんも行ったり来たりして、とうとう入ってきたんです。
私はピカにあってから北海道に渡ったんです。北海道の人はみんな不親切ですよ。
ピカの時の話をすると、「大袈裟に言うて、人の同情をひこうと思うとる」と、陰口を言うのです。私はそれから、一口もピカのことを言わないことにしたのです。言ってやるものかと思うたんです。
おばあさんは言い終わると目をふせました。マイクがそばにあることを知ると、おばあさんはそれをつかんで口にあて、
「ここに来ている人なら信じてくれると思うんです。聞いてください。信じて下さい」とさけびました。
絵を見に来ていた人は、驚いておばあさんの方を見ました。わたしもびっくりして、「どうぞ、どうぞ「と少し高い台の上へ上がってもらいました。
おばあさんは涙をしたたらせ、しゃくりあげながら子どもの手をひき、傷ついたご主人を背負って逃げまどったひろしまのピカの時のことを語りつづけました。人々はこっくりして、おばあさんの話を聞きました。泣いている人もいました。
おばあさんは話し終わると、
「よう聞いてくださいました。ありがとうございました。北海道の人の悪口を言うてすみませんでした」と、深く頭をさげました。
この光景は、わたしの胸にずうっと疼きつづけておりました。ピカの時から7歳のままになってしまったみいちゃんは、今どうしているのでしょう。そして、この話を聞かせてくださったおばあさんは、どこにどうしていられるのでしょう・この絵本は、このおばあさんの話を基にし、私が見たり聞いたりしたたくさんの原爆体験を織りあわせてつsくりあげたものです。

私もとうとう70近くになりました。私には子供がいないから孫もいません。でもこれは、孫たちへの遺言なのです。
描いたり消したり、描いたり破ったり、ずいぶん長い間かかって仕上げました。どう表現していいのか困りはてている時に、はげましつづけてくださった編集担当の千葉さんご兄弟やたくさんのお友達に、改めてありがとうとお礼を申し上げます。また、貴重な資料を提供してくださった広島在住の田淵実夫氏、広島電鉄株式会社広報担当の川手寛司氏にお礼を申し上げます。
(1980年2月27日 記)

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