『The sense of place』

山と谷がいくつも重なりあっている様子が見渡せる場所に来るたびに、私の中で縺れている何かが少しずつほぐれてゆくような感覚が沸き起こる。

道路際の草刈りされた植物が夏の太陽に焼かれ萎び、そこから立ち昇る緑色の匂いが大気を満たす。
昔からずっと変わらないと思っていた夏の山の匂いの中に、葛の花の匂いが幾分多めに含まれていると感じたのは、此処が山であることを私に知らせるためか。

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今よりももっと山の近くに暮らそうかと思っている。
東京から長野へと暮らしの場を移し、15分も歩けば熊も鹿もいるような山の近くのこの場所からもっと山に近い場所へ…となればそれは、斜面がもっと急峻であるとか、木が生い茂っているとか標高が高いとか近隣には民家が少ないとか畑や棚田があるとか…
山に近い場所 は、まちから離れた場所…という意味を含んではいるけれど、まちから離れたいのか…と言われれば、それとは少し違う気もするのだが…。

長野市の西の山際で生れ育った私が、東京に行かねばならない…という闇雲な衝動に突き動かされてここを離れてから再びここに戻ってくるまでには随分と長い時間が必要だった。
「なぜ長野に戻ってきたのですか」と聞かれるたびに、子供の成長と経済のバランスを考えて…と答えるのも嘘では無いけれど、ほんとうはきっとそうじゃない。

 

いまここにあるものでここにつくってみたい。
『いまここ(場)の感覚…The sense of place』だけを頼りにして…。

 

それは、自分の中にどんな「いまここ(場)の感覚」が育まれているのか知りたかったから…。
もし私の中にそうした感覚が育まれているとすれば、それはきっと、生れ育った場所(長野)と自分自身が選択し育った場所(東京)…その二つの場所で育まれた感覚であるはず。
この異なる二つの場所をつなぐものがあるとすれば、それは私の中に育まれてきたであろう「いまここ(場)の感覚」なのではないだろうか。

私たちが、美しい景色だと感じたり、素晴らしい歌声だと感じるのは、この世のありとあらゆるものや出来事が一つの繋がりの関係性の中にあることを私たちが本能的に感じることができるから。
もしそこに繋がりの関係性を感じなければ、美しい景色だとは思わないだろうし、その景色を破壊することに対して躊躇する気持ちすら沸き起こらないはずだ…。
もしも私たちがこの先も持続可能な暮らしを求めるのであれば、それを実現するのは経済性や利便性では無いことは明らかだ。

 

「美しさ」は繋がりの関係性、持続可能性という目には見えない関係性を確認するための重要な手掛かりとなる。

私たちが生きるこの世界が持続可能であるためには、何よりもそうした美しさを私たちがこの世に感じ続けられるかどうかこそが最も重要であって、そこではもはや美術であるとかArtであるとかはどうでも良いことだと私は思う。

とはいえ、そうした繋がりの関係性を感じ続けるための可能性が美術やArtにはあるはずだ…
これからは、そういった美術やArtが必要とされるような社会であってほしい…。

 

私に「いまここ(場)の感覚」を気付きを与えてくれた一人に、20世紀のアメリカを代表する自然詩人であり自然保護活動家である、Gary Snyderがいる。
そのスナイダ―は、山里勝己著『場所を生きる―ゲーリー・スナイダーの世界』の中で、「場の感覚」について次のように語っている。

 

「それは関係性の問題なんです。我々は場所に対してひとつの関係性を生きている。もし我々が我々の場所との関係を理解することなくそれを表現することもできないのであれば、我々は我々自身の生活を理解していないことになる。もしある場所に住んでいて、その場所に注意を払っていないのであれば、その人は場所との関係性を生きていないし、何かがおかしくなっている。場所の感覚は自分が誰であるか、自分がどこにいるのかということを表現するものなのです。人間が健全であるためには場所の感覚は不可欠のものではないでしょうか」

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気候を知る、地形を知る、動植物を知る、風土に息づく歴史を理解すること。
そうして育まれる いまここ(場)を生きているという感覚は、この世が、目には見えない繋がりの関係性によってつくられているということ…私たちは場所との関係無しに生きることはできないということを知るために欠かすことのできない感覚だ。

自然とはそうした目には見えない繋がりの関係性の現れ。
いまここ(場)の感覚…The sense of placeによって、
私たちが次にすべきこと
それもまた自然と見えてくるはずだ。

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