「場が持つ力」

「しののいまちの教室」http://shinonoitowncampus.net/
私が授業コーディネイトする授業 3回が終了した。
スタッフをはじめ、授業の講師を引き受けて頂いた方、受講して頂いた方に心からの感謝。
授業は11月、12月に各2回、計4回を残している。
これまでの授業の様子については、事務局スタッフとして活躍して頂いている、学生の皆さんによるレポートがあるので是非こちらを読んでいただき、残りの授業も是非参加してくださればと思う。

コーディネーターである私が描いた授業には、それぞれのねらいがもちろんある。
受講して頂いた方々にとって、私のコーディネイトした授業が何かしらの気付きのきっかけとなって頂けたとしたら、それはもちろん嬉しい。
でもそれは…
「なにかしらの気付き」とは、あくまでも一人ひとりの内側で起こるもの…いつ何時それが起こるかはわからないものである以上、授業の成果を計ることは極めて難しい。

この世で起こること…それはどんな些細なことであれ、いまここで起こる出来事はいまとは異なる未来という時間をつくり出す意味では全て同じ価値を持つ。
赤ちゃんの泣き声も、鳥の囀りも…。
その意味からすれば、面白い…とか、つまらない…とか、意味があるとか、意味が無い…とかは、さほど重要なことでは無いと私は思う。
最も大切なことは、『いま、私はどう思っているのか』
未来とは、「いま ここ」を感じている私によってつくられるものであるはずだ。
少々強引かもしれないけれど、「未来は私によってつくられる」
山とまちの境界線…も、私には何が見えるのか…も、支えあい繋がりあうまちの姿…も、全ては、私の意識があってこそのものであるはずだ…。
未来がこうあって欲しい…というイメージこそが私たちが生きる未来にとって最も大切なものではないか…。
イメージを抱くことの大切さ、重要さ問いかけたいと思った、3回の授業であった。

「しののいまちの教室」という全体の授業構成を踏まえ、授業の内容ついてあれこれ考えた結果、私が担当する授業はそれぞれ1回完結の授業とすることにした。
今年はじめての試みである「しののいまちの教室」が目指すところ…も十分に周知されていはいない状況の中、1回完結の授業…しかもたった2時間という短い時間での授業形態という選択はとても難しい選択であったとは思う。
しののいまちの教室が目指すところ、授業が目指すところ、講師を選択した理由だけ述べたとしてもはたして2時間で足りるかどうか…とはいえ、2時間ではできないと言うことでもない。
1回完結2時間授業であるからこその可能性…目まぐるしく変化するこの時間と情報の渦の中…その時間の流れの中に僅かながらの淀みのような時間をつくるとすれば、許される時間は1回完結 2時間がちょうど良いのかもしれない。
理想を言えば、2時間程度の複数回の連続講座か…。
でもしかし、1回完結2時間の授業がきっかけとなって、そこから先はまちに出て各自、実践する…それこそが、いまの社会の中のつくられる 淀み にはちょうど良い。
しののいまちの教室が「まちの教室」を名のるからには、私たちが暮らすまちを様々な角度から考えるきっかけをつくらねばならないだろう…。まちへと人を誘う程度のものであるのがふさわしいのかもしれない…と思う。

自分は美術家でありたいと願う一人…教師ではない。
一般的に、ワークショップと呼ばれるような手法?を用いて、問いかけたいと思ってはいるけれど、それらはあくまでも、私にとっての表現の一つの表われにすぎないとも言える。
その問いかけに対する答えを示すつもりはない。
答えを求めて問いかけるつもりもない。

『いま ここ を共に感じてみたい』 …と思う。
一人ひとりの感性が繋がりあった時、そこにあらわれる気配を感じてみたい。
そこに私たちが共に描くことができる未来がおぼろげならが見えてくるような気がするから…。

3回の授業で講師を担当して頂いた3名の方々には、(こう言っては失礼かもしれないけれど…)自分の期待をはるか上回った素晴らしい授業を一緒につくって頂いた。
3名とも、素晴らしい才能と行動力を持ちあわせた方々である。
授業をコーディネイトするにあたっては、何よりも、私たちは同じ「いま ここ」を感じながら生きている…ということを感じて欲しいと思った。
講師としてお呼びした方々が放つ気配…その気配が、その場の一体感をつくりあげていることを感じてもらえたはずだ。

ここ最近「場」や「場づくり」という言葉が多く聞かれるようになった。
だからと言ってそうした「場」を定義づけるつもりは無いけれど、
『場』とは、「いま ここ」の気配が満ちた時空間であり、そこでは互いの感性が通じやすく(響きやすく)なるという特性がある…と私は思っている。
そこでは、目には見えない心と心をふれあわすきっかけが欠かせない…。

いま、まちに求められているのは、そうした場が放つ気配のようなものではなかろうか…。
私たちを分かち、分断する境界線は、私たち一人ひとりの心の中で引かれている。
「場」は私たちが知らず知らずの間に引いてしまっている様々な境界線を一本一本消し去ってゆく力を持つ。
観念論、理想論だと言われるのも重々わかってはいるけれど、それでも私はイメージによって…イメージが繋がりあることによってこの世は変化すると信じている。

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