「リ サイクル」

1970~1980年代、先進国の急速な工業化によって生産量や貿易量が増し、それと同時に排出される有害産業廃棄物の量は激増。先進各国が国内の環境規制を強めるいっぽう、処理しきれない産業廃棄物は東欧やアフリカ、太平洋諸国などの規制や監視の緩い途上国へ大量に輸出され投棄されるといった状況を招いていた。
こうした状況を改善するための国際法…有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関する国際条約「バーゼル条約」(1989年に採択、1992年に発効、1993年 日本も加盟)があるものの、この条約はゴミの国境移動を全面的に禁止するものではなく、規制にとどまるものであり、リサイクル目的の輸出を禁じていない。
それはようするに、目的を「最終処分」から「リサイクル」にすり替えることによって、廃棄物を輸出あるいは輸入することができてしまうということ…輸入する国において再生利用産業又は回収産業のための原材料として必要とされている場合は、産業廃棄物扱いにはならずに「リサイクル資源」となるということ。

日本の国内法である「廃棄物処理法」では、「売れるものであれば、ゴミではない」という解釈が基本であり、古紙やプラスチックくず、鉄鋼スラグ、鉄スクラップなどの輸出は、『貿易品』という扱いになる。
こうした貿易品としての廃棄物を労働賃金が安い国側で受け入れ、低賃金労働者がそれらを分別する。そうして分別された品々は、廃棄物原価の何倍、何十倍の価格で売買される。
この国…日本に暮らす私たちは、リサイクルは良いこと…好ましいものだと両手を上げて賛成してしまいがちだが、こうした廃棄物リサイクルビジネスを可能にしているのは、実は世界を大きく二分し続ける貧困と格差という目には見えない社会構造そのものであることは私たちは見落としてしまいがちだ。

1995年には、OECD(経済開発協力機構)諸国=先進国から、非OECD諸国(途上国)への有害廃棄物の輸出を全面的に禁止する修正条項(Basel BAN)が提出、成立してはいるものの、その修正案は未だ発効されていない。
日本はアメリカと共に、強硬にこの修正条項に反対を続けてきており、いまもなおこの条項を批准していない。

廃棄物をどうするか…ゴミをどうするか にまつわる問題は、私たちがこの世に生き続けるために極めて重要な問題であるにも関わらず、私たちから廃棄することへの意識は急速に薄らいでしまった。
捨てることに慣れすぎてしまった私たち。
私たちは既に捨てることに快感を感じ、もはや捨てる欲望を抑えきれなくなってしまった廃棄ジャンキーなのかもしれない…。

人の命であれ動物の命であれ、廃棄物であれ、この世に存在しうるもの…という観点からすれば、この世に存在する価値に一切の優劣は無いと私は思っている。
その意味からすれば、廃棄物は私たちの命ともまた密接に関係しているはず。
生と死は隣り合わせ…「廃棄すること」をこの世での価値の終わり…価値の死する時と位置づければ、廃棄を遠ざければ生もまた遠のく…ということ。
廃棄物は、私たちのこの世の生き方とは何であったのかを最も雄弁に語るものだ。
自分たちが如何に生きてきたかを見ずにして…そこからの反省も無しに…ましてやその始末を他国に押し付けてしまっていては、金は生み出しても、生命力は確実に失ってゆくだろう…。

このところの10年間、日本の廃棄物の最終処分量(H22は 1400万トン)は確実に減り、リサイクル量は増えている。
資源がリサイクルされると、エネルギーが節約され、海外から輸入する資源は減っても良さそうだが、しかし実際には、エネルギー消費量も海外からの資源輸入量も減ってはいない。

有害廃棄物を途上国に送らずに自国内で処理することに、真剣に取り組まなければならないのではないか。
国内で排出したものの処理は必ず国内で処理するのだというところから考え始めなければ、ゴミはけっして減りはしない…。
私たちは、ゴミを捨て続け、新たな商品を買い続けることになる。
途上国や、将来の世代に負荷を押しつけることのない持続可能な社会とはどんな社会なのか…。
それは、ゴミという規制概念を解き放つことから始まるのではないか…。
ゴミに近づいてもっとじっくり見てみる。
そうすることできっと、創造への入口が見えてくるのではないだろうか。

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