「学校」

あの頃…私たち家族がまだ東京に暮らしていた頃。
私の中には、なぜ東京に暮らしているのか…という疑問が日毎大きくなっていいるのを感じていた。
別に東京が嫌になったのでは無い。
それは、このまま東京で暮らさなければ見えないこと。 と、東京を離れることによって見えてくるであろうこと。 の狭間に立ってしまっていたと言うことなのだが…。

 

その選択は結局、娘の小学校入学というタイミングまで持ち込み、結果、私たちは私の生まれ育った長野市へと移り住むことにした。
それは、別の言い方をすれば、私に沸き起こった疑問を解決するために、私が家族を巻き込んだ結果であったとも言える。
長野市生まれではない妻からすれば、夫が生まれた街である以外、長野という選択は何もかもが始めての連続。それはまた、東京以外の街で生まれ育ったという対等な関係も変わると言うことだった。

 

様々な不安を抱えていたであろう妻が最も気にしていたのは、娘の学校のこと。
彼女がこれからを生きてゆく力を身につける上で、「学校」がどうあるかは極めて重要な問題であることは、妻にとっては特に大きな問題であったのだと思う。
しかし、いくら重要であるとは言え、親が四六時中付きそうこともできない。
大袈裟に言ってしまえば、学校を選択するということは、学校を信用できるかどうかということ。
とは言え、学校を信用するとはどういうことなのだろうか。

 

私たちが東京都国立市で運営していたPlanterCottageは学校では無かったものの、大人子供に関わらず、様々な学びの場づくりが行われていた。
「図書館&ギャラリー」であったPlanterCottageには、私たちがいま大切だと思うことを表現することを通じて、日々、学校とは何か、学びとは何であるのかを自らが体験し、感じてきていたのだと思う。
不登校の子供、ハンディーキャップを抱えた人…本人、親、大学生、大学教授、ミュージシャン、アーティスト…様々な人々と一緒に様々な学びの場づくりを行ってきた。
そうした、そこでの経験や、私が幾つかのフリースクールにも関わっていたこと、さらに、国立市内ではいつもどこかしらで市民が、学校や教育についての意見を交わしあう場があったことも影響してか…。
そういった日常が普通であった私たちは、ここ(長野市)がまだどういったところなのかもわからない不安を抱えつつも、あれこれ考え、悩んだ結果、最終的な判断として、「学校には頼りすぎない」「子供の立ち位置に立って考える」「子供に向き合い話しをする」 これだけは忘れないように。そして、自分たちが暮らす地域から歩いて通える公立学校へ通わせる…という決断をした。

 

いま娘は小学校5年生。
あの時の私たちが決断し、通い始めたその学校で大きく成長している。
そして、彼女と彼女の仲間たちは、今まで経験したことの無いはじめての大きな試練に直面することになってしまった。

 

彼女たちは何度も先生たち、そして大人たちに問いかけている。
「学校って何ですか」…と。

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