上手く言葉にできない歯痒さを抱えていた自分に言葉を探してくれた…というか、踏み出し切れない自分の手を引いたのはやはり娘ということか。
あの時…つくり始めてしまったものの、何かものたりさなを感じていたPlanterCottagteに、大袈裟に言ってしまえば、生命という大きな気付きを与えてくれたのは、娘の誕生だった。
それから6年後…そのPlanterCottagteを半ば強引に仲間たちに押し付け、家族を連れ、東京を離れ、生まれ故郷の長野市へと暮らしの場を変えた。
それは、娘が生まれ…彼女が小学校に入学する時までには、このまま東京での暮らしを続けるのか、それともどこか別の場所に移動して暮らすのかを判断しようと考えてはいたものの、結局ぎりぎりまで判断できずに、結果、東京という強力な引力圏から離れるには唯一、娘の小学校入学というタイミングを推進力として使うしかないと思っての強引な選択だった。
その娘はこの春、小学校の最後の学年になる。
そして彼女はいま、「学校はつまらない」と言う…。
またしても私は彼女に手を引いてもらうことになりそうだ。
今までずっと考え続けてきたこと。
それは、学びの場がつくりたいと言うことだ。
PlanterCottageをつくり始めてからいままで約15年間、ずっとそれを考え続けてきたと言っても過言じゃない…。
「学び」と言うと、誰しも「学校」を思い浮かべるのは当然で、…かと言って、学校がつくりたいのか…と言われるのが嫌で、今までずっと、あれやこれやで誤魔化してきたような気がする。
でもそうしたことはどれも自分の自信の無さの現れだったのかもしれない。
人が何と言おうと自分がつくりたいものをつくるんじゃなかったのか…。
いま、娘に、子どもたちにそう言われているような気がしてならない。
学校のここが問題だとか、教育が間違っているとか…そんなことは結局のところどうでもいいことだと思う。
最も大切なことは、いま自分の周りにあるものをとことん見て、触って、自分がつくりたいと思うものをとことん想像し、そして創造することだと私は思う。
それはもう誰かがやっている…なんて言っていたら、この世でやれることなんてもう何も無いのだし…。
いま私がつくりたいと思っているものが「学校」なのかどうかわからないけれど、自分で生きる力とは何かを考えた時、そこには、共に考え、学び、実践する場が必要だとずっと思いながら、あれこれやってきた。
だから私は、そうした場所がつくりたい。
人は生きるために働く。働くことが生きるために必要であるのなら、「働き」の中から学び、学びながら暮らしたい…と思う。
昨日の私の投稿に、私の大切な仲間がコメントしてくれた。
それは、私の好きな、山尾三省の詩だった。
若いころは 洗濯も 洗濯物干しも 仕事と呼べないことだと 思っていたが
今はもう すっかり悔い改めた
一枚 一枚 ばん ばんとはたいて うす陽にむけて
一枚 一枚 洗濯物を干す
こんな有難いことが この世にはある
(山尾三省-梅雨時-ながしどき-『祈り』所収)
今はまだ上手く言葉にはできないけれど、この詩がやけにしっくりきた。
学び舎をつくりたいと思います。
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