「一人きりの時間」

もうだいぶ前のこと…。本だったか、それとも誰かから聞いたのかは忘れてしまったけれど、「フィンランド人には1日最低1時間、一人きりになれる時間が必要だ」と聞いたことがある。
それが本当かどうかは定かでは無いものの、いまという時代にあって、一人きりになれる時間はあるようでいて実は無いに等しく、自らが意識しなければつくることはとても難しい。

長いこと自分でつくることを意識して生きてきた私ではあるけれど、いま私たちが、最もつくれないもの…つくり方を忘れてしまったのは、「一人きりになれる時間」のつくり方なのではないかと思う。

私と妻の間に娘が生まれ、娘をどう育てるかという話もしたこともあった…けれど所詮、出たとこ勝負のいい加減さに関しては似た者どうしの私たち…何を話したのか、殆ど忘れてしまった。
ただ、そんな私たちが唯一忘れないようにしていたことがあるとすれば、子供としてではなく一人の人として接しようと思ってきたことぐらいか。
自分たちのタイプじゃない…と、いわゆる赤ちゃん言葉は使わなかった…使えなかったし、子供だからという理由でやり過ごすことだけはしないようにと思ってきた。子供に話してもわからない…と思われるような話しもたくさんしてきた。
娘がどれだけ理解できていたのかはわからないけれど、そもそも理解なんてたいした問題じゃない…。
それよりなにより大切なことは、「私に向かって話してくれているかどうか…」という実感なのではないかと私は思う。

そんな私たち家族がお互いに大切にしてきた時間…それが一人きりになれる時間。
我が家ではそんな時間を「それぞれタイム」と呼んでいるのだが、それは何時から何時までというように決まりがあるわけでなく、なんとなく誰かから始める…すると、「それぞれタイムに入ったんだな…そんじゃぁ私も」…という感じで。

この春、6年生になる娘のここ一年の成長ぶりは驚くばかりだ。
それはまるで脱皮を繰り返しながら成長する蚕のよう…身長体重の変化もさることながら、その言動にしろ思考性はもはや子供とは言えない。
このところ、そんな娘の姿に幼い頃の自分が重なって見えることが多くなった気がするのだが、弟はいるものの、弟とは歳が離れているせいか、兄弟がいるという感覚が薄い私と、一人っ子の娘の間にはもしかすると、「一人の時間のつくり方」の共通性があるのかもしれないと思ったりもする。
とは言え、一人っ子だからということでは無い。
それは、「想像のしかた」の共通性と言ったほうが感覚的には正しいのかもしれない…。
私たちが、目や耳をはじめ、五感で感じることができる この世の時間軸の中に、自分の時間軸を見出す力…私はそれが想像力であり、その力こそがいまを未来へと方向付けられる唯一の力なのではないかと思っている。
ようするに、私たちが自分の時間軸を見出すことができなければ、誰かにつくられた時間軸の中で生きるしか無いということ…そこには自分が消失してしまう危険性があるということだ。
「一人きりの時間をつくる」とは、この世の多様性の一つが自分であることを知ることだと思う。

私が森や山に惹かれ、足を運び続けるのは、そこが実に多様な「一人きりの時間」によってつくられていることを感じることができるから。
私がその場の多様性を破壊せず、その場に流れる時間軸をより持続させうる存在であれるのかどうか。
私の役割は何なのか…。

植物や樹木が私たちの目には見えない地中で根を伸ばす。
雪の下で、樹上でも…。
私もこの時間をつくる一人になりたいと思う。

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