社会美
目には見えない、けれど確実にここにある社会という現象を美術をつうじて表すことによって
美術は社会を揺り動かす原動力となり得るのではないかと思っていた。
そうした美術というあり方が、私を「いまここ」に向かわせたことは否定できないものの、社会を表わそうとすればするほどに、社会は遠退いてゆくことを知った。
好きになってしまったものに、もっと近づきたい、もっと知りたいと思うのは自然。
けれど、近づけば近づくほど、知れば知るほどに美術との距離はひらいてゆく。
私には美術が必要なのかという疑問が増してゆく。
芸術的価値を専らにすることができない、落ち着きのない私。
勉強は嫌いではなかったけれど、学校の教室には退屈な時間が満ちていた。
風はどちらから吹いてきているのかと思いながら窓の外を眺めていると、きらりと光る蜘蛛の糸がほんの少しだけ弧を描いているのが見えた。
もっと近づきたい、もっと知りたいと思うのは自然。
近づけば近づくほど、知れば知るほどに距離はひらいてゆくとしても、
美について知りたい、近づきたい。
美は何のために…どこにあるのか。
「いまここ」によって示される時間の連なりと空間の広がりの中に社会がある。
それは多様な関係性が繋がりあってつくられる、あるいは多くの部分が緊密な連関をもちながら連携することによって起こる有機的な生命現象。
目に見える現象、部分だけに注目しても社会という生命の全体性はけっして見えてこない。
もっとも重要なことは、目には見えない関係性が様々な質感を伴っているということ。
私たちは関係性の中に、朗らかさ、緊迫さ、堅苦しさ…といった目には見えない雰囲気が放つ独特な質感を感じながら生きている。
広範かつ複雑な現象である社会にとって制度化や組織化は秩序をもたらすという点で重要ではあるものの、
制度も組織もまたそれ独自の質感を携えているのだとすれば、この質感をこの社会に生きる者としてどのように感じるかこそが最も重要であるはずだ。
私はそうした雰囲気が放つ独特な質感の違いに対して、広い意味での「美」が大きく機能しているのはないかと思っている。それはまた、社会は私たちの美の感じ方によってまた変化するということ。
非言語的、無意識的、直感的なものを感じる感性が社会の様々な関係性を質感として捉え、その質感が社会全体の雰囲気をかたちづくるのだとすれば、これほどまでに歪んでしまっている社会もまた感性によって修正することは不可能ではないのかもしれない…
しかし残念なことに、「美」が例えば美術として、芸術として単に形骸化されてしまって久しい現在、感性もまた制度の枠の中にある。
社会学者の宮原浩二郎と藤坂新吾は、著書「社会美学への招待」(2012年ミネルヴァ書房)で、社会と美の関係を様々な角度から考察しているが、その中で、アメリカの哲学者E・スカリー(Elaine Scarry)の、著書「美と正義について」(On Beauty and Being Just 1999年)をつうじての論考を取り上げている。
「気前よくふんだんにあり、ほとんどいつでもほとんど全ての人々に対して存在する。愛し合う人たち、その子どもたち、彼らの庭を横切る鳥たち、その鳥たちの歌声、美はそこにある」とした、美が日常のいたるところ溢れているという素朴な確信を臆面も無く前面に押し出しEスカリーの主張について…
美を「芸術」という非日常の領域に特化させてきた近代美学と、美のエリート性を自明視する大衆意識からすれば実に大胆な主張であろうと述べている。
このあまりにあたりまえな主張を大胆な主張だと言わしめる社会こそが、感性を封じ込める制度という枠そのものであり、それが私たちがいま生きている社会の姿なのだ。
近代、20世紀以降の現代芸術は美からの離反を強め、既に「芸術は美しくない」が現代の常識となって久しい。現代美学では、優美さや明るさ、均整や調和を思わせる美ではなく、畏怖や異和、メランコリーや暗さを思わせる崇高のほうが現代性に富むとされている…とも宮坂は言う。
20世紀初頭の社会変化を反映したダダイズムに代表される反芸術も、その後のアメリカの経済的繁栄、大量消費社会を背景とした大衆文化を取り入れたポップアートも、政治的・経済的・社会的利害関係やイデオロギーという強大な渦の中に飲み込まれてしまっていることを思えば、芸術も美術も「美」からは遠く離れてしまったままの状態にあるとしか言うしかない。
美術は崇高な美を重んじるあまり大衆の手の届かないところへと遠退いたまま。
いまここを生きているはずの美術家が芸術的価値を専らとする活動に勤しみ芸術を美術をArtを懸命に主張しても、その声は遠く大衆には届いていない…。
20世紀前半、社会美学という概念を提唱した、社会運動家・アナキスト・思想家として活躍した石川三四郎(1876-1956)は、著書『社会美学としての無政府主義』(1932)の冒頭で社会美学をこう説明している。
「社会美学とは社会的美学ということではない。換言すれば美学の社会的または社会学的研究をする学問をいうのではない。私がいまここに言う社会美学とは、社会現象そのものを美的観照の対象として研究することである。ギュイヨーは美または芸術を社会学的に研究したが、私は社会を美的または美学的に研究してみたいと思うのである」
私はできればこの一生を美術家として生きたいと思う。
それは、美術という入り口が私に生きる力とは何であるのかを考えさせてくれたから…
と言うと、少々恩着せがましいが、美術はこの社会にとっての「美」の入り口となり得ると思っているから。
石川三四郎は社会を美的または美学的に研究してみたいと思うと述べているが、私は、社会を美術しながら生きたいと思う。
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「美学創造舎マゼコゼ」では、『社会美術のための社会美学講座』を行う予定です。
現在、日程と内容を調整中です。
美からの離反を強めてしまった20世紀以降の現代芸術に注目しながら、芸術作品や自然景観に独占されてしまっていた「美」のイメージを再考し、社会とそこに生きる私たちにとって欠かすことのできない感性の育みに必要な「美」について共に考える講座を予定しています。
講師は、美学創造舎マゼコゼ代表、小池雅久 他。
詳しい日程や内容は決まり次第、FBとBlogにてお知らせ致します。
また、美学創造舎マゼコゼを運営する私たちRIKI-TRIBAL S.A.W(リキトライバルS・A・W)では、
引き続きスタッフを募集!…切望!!しています。
条件や仕事内容等は直接お会いしてお話ししたいと思っています。
私たちの活動にご興味持ってくださる方、ご検討お願い致します。
美学創造舎 マゼコゼ日記
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