art brut

ジャン・デュビュッフェは、アンフォルメル(1940年代半ばから1950年代にかけてフランスを中心にヨーロッパ各地で展開した美術の動向)の先駆的作家とされているものの、デュビュッフェ自身は、従来の西洋美術の洗練された技法や様式、巨匠の名人芸といった伝統的価値観や、西洋文明そのものを痛烈に批判するいっぽう、子供や、先住民、精神障害者などが描いた絵を高く評価しart brut(アール・ブリュット)という概念を提唱したことでも知られている。
デュビュッフェがフランスに生まれ育ったことからすれば、art brut という概念もまた西洋的価値観、西洋的概念と無縁であるとは言えないものの、それをartの一分野だとかartの評価基準として捉えてしてしまうと、art brutの本質を見失う。
西洋は西洋であってそれ以上でもそれ以下でもない…。
西洋文明を痛烈に批判してはいても、それは西洋人や西洋そのものを否定していたわけではないはずだ。
「真の創造は、存在することも、あるいは芸術でないかも気にかけない 」というデュビュッフェからのメッセージの本質がかき消されてしまうと思う。

 

フランス語art brutは、英語ではoutsider artに、日本語では「生(き)の芸術」と翻訳され、日本では近年、そうした表現の中でも精神障害者による表現に対する注目が高まっている。
しかし、そうした表現に対する注目が高まるにつれ、精神障害者による表現をartのoutsideとして区別することは、精神障害者に対する差別ではないか…との非難もあり、「エイブル・アート」「ワンダー・アート」「ボーダーレス・アート」などと呼ばれたり、とかく社会とのつながりが途絶えてしまいがちな、様々な障害を持った人たちが社会とのつながりを持つ、保つための手がかりとなるように支援しようとする動きへと変化してきている。

 

デュビュッフェが1949年に開催した「文化的芸術よりも、生(き)の芸術を」のパンフレットには、「アール・ブリュット(生の芸術)は、芸術的訓練や芸術家として受け入れた知識に汚されていない、古典芸術や流行のパターンを借りるのでない、創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現」 と書かれていたが、デュビュッフェ自身はart brut を知的障害者が描いたものであるとは一切言っていない。
一般的には、art brutやoutsider artを説明する際には、専門的な美術教育を受けていない、作品を社会に向けて展示したり発表することがないまま、独自に作品を制作しつづけている者などの芸術…とされてはいるものの、そもそも、何をして専門とするのか…専門と非専門の区別は実に曖昧であるし、展示や発表を目的としない芸術家や美術家はたくさんいる。
デュビュッフェがart brut という概念を提唱したことに対して、「専門的…」などという単語を持ち出さなければ説明がつかないほどに、art brutとして示したものは、「真の創造性」に満ち溢れていたということなのではないか。
おそらくは、デュビュッフェにそう指摘されたことで、「それは図星だ…」、「ああ…まったく、なんということを言い出すのだ…」と思った専門家はたくさんいたと思う。でもしかし、それをそのまま認めるわけにはいかない事情が当時の世間に満ちていたであろうことも容易に想像することができる。
世間の事情というやつが、デュビュッフェの生きた時代にはたまたまartという世間に露出したということ…私たちが生きる「いまここ」では、どこに世間の事情が露出しているのだろうか…。

 

気が付けば私は、日本という国に生まれ育ってしまっていた。
デュビュッフェが西洋という場所に生まれ育ったことと同様、私にしてみてもこの事実は否定も訂正もできはしない。
たまたま伸ばした手の先に美術が、Artが触れ、それに惹かれていった…それも事実。
のめりこみ易い性格の私は、少しぶっ飛ばしすぎて疲れてしまった頃だったか、art brutの作品に目がとまった。
その作品の制作者が精神障害者だったかどうかは覚えていない…けれどその頃から美術館と画廊は私から遠退いていった気がする。
私が岩登りを始めたのはその頃からだ。

 

どうして私は美術やArtのことばかり考えてしまうのか…
これも「私利私欲」というものか。
できることなら子供に戻りたい。原始時代に行ってみたい。
左手で絵を描いてみても、子供のような絵が描けるわけではないと解ってはいても、そうせずにはいられない…近づけば近づくほどに遠ざかる。

 

art brutやoutsider artと呼ばれる作品に模倣はほとんどない…あるいは全くない。洗練された技法や様式にとらわれることもなく、誰かのためでもなく、おそらく自分のためでもない…。心の奥底から沸き起こる創造がそこにある。
私たちはart brutの作品に、制作のあらゆる段階においても、彼ら自らの衝動からのみ起こった芸術活動を目の当たりにするのだ。
私たち観賞者が、そう感じながら見ることは間違いでは無い。自分の目で見ようとする人であれば、彼らが創り出す作品に力強さを感じずにはいられないはずだ。
けれど、だからと言ってart brutやoutsider artこそが本物のartだとか、優れているとは思わない。
大切なことは、作品性や作家性ではなく、その作品を目のあたりにした私たちの側にある。
私たちの誰も皆、そうしたart brutやoutsider artの中に「美」の本質を見出すことができるということこそが大切なのだと私は思う。
彼らがつくりだす作品はきっと、私たちにそれを伝える役割を担っているのだと思う。
それこそが、デュビュッフェが見出そうとしたart brutなのではないかと。

 

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