ネパールの混乱に思う

今年4月にネパールで起こった地震の際、真っ先に駆けつけ支援合戦を繰り広げたインドと中国。

そのインドが、南部タライ平原に暮らす親インド派の人々による新憲法に対する抗議活動に乗じてネパールへの国境封鎖による経済制裁を行なっている。インドのネパールへの忠告は、その向こう側にある中国を睨みながら行われていることは間違いなく、ネパールという国が二つの大国の利害にさらされているという背景が見えてくる。

国際関係とは、そうした利害が複雑に絡み合ってつくられていることは理解できるものの、経済的優位に立つ国が行う経済制裁とは、防戦一方の国に対してさらに一方的な攻撃を加え続けている状態であり、大量の人々の生命が危険に晒されるという意味からすれば、一方的で卑劣な卑怯な戦争行為と言っても過言ではない。

こうした状況をいち早く解決し止めるためには、国際社会の一員である私たち一人ひとりがこれを他人ごとと捉えることなく、自分事として想像すること、意識する必要性がある。
しかしながら、国際経済的優位に立つ日本に暮らす私たち日本人は、こうした攻撃を加える側に立つことはあれど、攻撃される側にもなり得るという想像もできないまま、ただただ安穏と暮らし続けている。
先頃の安全保障法案の強行採決は、まさにそうした安穏状況を物語っている。

こうした状況を招く原因はどこにあるのかはとても難しい問題だが、美術あるいはArtというものに携わる者の一人からすれば、この国に暮らす人々の想像力が著しく欠如しているからであることは否めない。
想像力が乏しければ、人の痛みなどわかるはずもない。
もちろん、殴られたことが無ければ本当の痛みはわかるはずもないが、だからといって、わざわざ殴られに行く馬鹿は少ない。だからこその想像力ではないのか。

いま、この国…日本という国にとって最も必要なものは、国際的経済的優位さや安全保障などではなく、人の痛みを感じるための想像力の育みなのではないだろうか。

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