いまから10年程遡ったあの頃…
この歳の自分なんて想像もしていなかった…というか、できなかった。
10年後の自分を想像できない いま もまた同じ。
人は前を向いて歩いているとは言え、見えるのはせいぜい数キロ先が見えるかどうか。10年後はおろか明日だって見えやしない。
いったい自分には何が見えているのか。
「見る」とはいったいどういうことか。
数年前、原因不明の免疫系の病が発症したとほぼ同時期に、片目の眼底出血によって網膜が傷付いた影響で視力が著しく低下してしまった。
しかし、そんな自分の身体の激変に対する焦りもあったものの、難病だからと言って動けなくなったわけじゃなく、二つの目のうちの一つを失っただけ…と思っていられる自分自身の冷静さに驚いた。
手術を受けるために入院していたベットの上で片目で天井を見ながら、もしもう片方の目が見えなくなっらどうするかを想像した。けれど見えない未来に怯えるのは馬鹿らしいのでやめた。
「見る」とはどういうことかについて考えることにした。
自分が抱えている免疫疾患は、粘膜に対して自己免疫が暴走するというものであるらしく、目の粘膜には症状が出やすいという研究結果もあるという。
もちろん必ず症状が出るということでは無いにしろ、可能性は否めないと医者は言う。だからと言って焦ってもどうにかなるものでも無いし、原因もわからないからの難病であるのなら、予防しようもないではないか。そもそも、これが病気なのかどうかすらわからないのなら、いまできることはいまするしかないということではないのか。
幸いなことに殆ど片目とは言え、いまはつくるにはさほどの不自由はないし、つくり続けるという気持ちは以前よりも強くなったような気もする。
このまま死ぬまでつくり続けられたら儲けもん。
自分が見たいものは目には見えないもの。
できることならそれを、自分一人じゃなくてみんなで見たいと思う。
言葉が書きたければ言葉を書けばいい。
踊りが好きなら踊ればいい。
歌いたければ歌えばいい。
でも自分は、言葉よりも踊りよりも歌うよりも、手を動かしてつくりたい。
この世に生きているかぎり、目には見えないものを見るための、見えるものがつくりたい。
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