「HOME or TENT」

 
私のことを知っている人 …と言うか、私の外見や行動から生じるイメージからすると、野宿なんて全然平気な人だと思われているかもしれない。
事実、その昔、大学入学当初は中央線、荻窪駅北口あたりに下宿していたにも関わらず、高尾駅、東京駅、武蔵小金井駅、吉祥寺駅…でさんざん野宿?を繰り返した私は、いい加減、家で寝たくなって、国立(くにたち・正確には国分寺市)に引っ越したのだった。
まぁ、血中アルコール度超過の正気では無い状態でのあれを野宿と言って良いのかどうかはわからないが、その後、正気の状態で幾度も、あちらこちらで野宿をしてみようと試みたものの、未だに野宿で健やかな睡眠状態に至れたと思ったことがない。
 
思えば子供の頃から野宿に憧れていた。
いつからか野宿は格好良いと思い込んでしまっている自分は、未だ、男ならやっぱ野宿だろ!!…と思っているのだが、その思い込みが結果として、縄文時代に対する興味や、アイヌをはじめ、世界各国の先住民、自然と共存しながら暮らしている人々、その暮らしぶりへと向かったのだと思う。
 
だがそうしたことを少し客観的に、冷静に考えてみると、自分が「野宿」に憧れることによって結果、ずっと意識しているのは、「宿」ようするに『家』の有り様なのだと思う。
家の有り様とは言い変えれば、「家と人との関係」ということになろうか。
 
そもそも人はなぜ「家」を必要とするのか。
「家」とはいったい何なのか。
…最近になってようやく、
自分はそのことについてもうずっと、長いことそのことばかり考え続けてきているのだということに気が付いた。
 
考えてみれば家と外との違いなんてほんの僅かなこと。
どんなに薄っぺらな布でできていようが、テントの中に入れば超熟睡できてしまうのが自分。
雨が降ったら熟睡はできねーな…と思うこともあるけれど、最近のテントはそこそこの雨ぐらいなら濡れるなんてことも無い。
気にするのは、そこが平らかどうかと凸凹ぐらい。
…でも、ずっとテントに暮らせるのか?
最長いでも一週間ぐらいしかテント暮らしは続けたことは無いけれど…。
場所にもよるけれど、トイレなんて無くても平気。
最近流行りの?野糞で十分。
風呂なんて入らなくてもどこかに水があればなんとかなる。
水は必要でも水道である必要は無い…。
 
もう随分前に、フィンランド人の写真家が私達が東京で暮らしている時に改装し運営していた家に泊まりながら、東京近郊で写真撮影をしていたことがある。
10日ほど滞在していたであろうか。隅田川の堤防の川辺りや、多摩川の河川敷など見られるホームレスの人々が暮らす、いわゆるホームレスホーム撮影するつもりだと言っていたが、彼は母国フィンランドでも同じくホームレスの人のテントを撮影していた。
おそらく彼は、人の目には見えない都市の影の部分(あるいは都市の暗)を写真によって捉えようとしていたのだと思う。
彼は写真だからこそ見える何かを捉えようとしていたのだと思うのだが、彼の写真を見ると、同じホームレスホームでも、明らかにフィンランドのそれと日本のそれは異なるものだった。
それをあえて一言で言うとすれば、日本のそれは「家」
フィンランドのそれは「テント」だった。
 
あれから時は過ぎ、東京を離れ長野に暮らしている。
長野に来てから、ホームレスホームはみていない。
築100年に近いであろう土蔵づくりの倉庫を改装し暮らしている自分。
 
自分が暮らすここは「家」なのだろうか。
はたして自分は「家」を求めているのだろうか。
 

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