あたりまえ

地面に埋め立てる杭や掘立て柱、木材の腐りを防ぐには防腐材を木材表面に塗る方法が一般的。施工が素早く簡単で効果も長続きする。
とかく耐久性能が問われがちな現代では、耐久性能の高さは結果として経済的であるという公式が一般常識化していているし、ホームセンターに行けば何種類もの防腐剤はもちろん、各種の防❍❍剤が並んでいる。
そうやって腐りや汚れを防御しようと躍起になるいっぽう、不燃ごみ収集日ともなれば、まだまだ腐ってもいない、たいして汚れてもいない、少し修理すれば使えそうな廃棄物のあれこれが山積みになっている。
蛇口をひねれば幾らでも水が出る。スイッチを入れれば何時でも電気が点いて、スーパーマーケットに行けばありとあらゆる食材が所狭しと並んでいる。
そんなあたりまえがこの世の中だとしても、このあたりまえはいったいどこから発し、さらにこの先、どんなあたりまえが自分たちを待ち受けているのだろうか。

朝4時半に起き、どんよりと曇った空から今にも降り出しそうな雪の気配を感じつつ長野駅前を通り過ぎ、N編集長をピックアップして小谷村(おたりむら)へと向かった。
途中から降り出した雪は白馬駅あたりまで来るとさらに激しさを増し、車を停めた南小谷では既に20〜30cm程の雪が降り積もっていた。
目的地は真木共働学舎。
いろいろなハンディーを持った者が共に働き、生活するコミュニティー「信州共働学舎」は長野県北安曇郡小谷村立屋と真木の二箇所からなる。
真木共働学舎がある真木集落まで車で行ける道はなく、通常ならば一時間程の山道を歩いて登るしかない。
前日、小谷村大綱地区に暮らす友人から、明日、真木に登るのは結構大変だよ…と忠告されていたとおり、通常のおよそ3倍の3時間半、膝から腰まである雪をかき分けながら歩いた先に、自分にとっては初めての真木協働学舎、そしてその中心の民家、アラヤシキはあった。

便利さが広く普及し、やがてそれがあたりまえとなる。
人はその「あたりまえ」に慣れてゆくと、「それがそこにあるために必要だった時間」を感じる感覚が失われてゆく気がする。
それは、人がこの世に生まれ生きることを通じて育まれる感覚、言わば「成長感覚」とでも言える感覚であり、便利さがやがてあたりまえになった時にその成長感覚が失われるということ。
人という生き物は実は、この感覚によって「自分自身がこの世をまざまざと生きている」ということを実感することができてるのではないかと思う。
自分とこの世の様々とがどのように関係しているのかを知り、そして想像するのも、自分以外の他人が感じているであろう痛みや辛さ、喜びがいったいどんなものであるのかを想像するのも、この「成長感覚」が大きく作用しているはずだ。

雪が降り積もっていなくとも、現代人にとってそこに行くにはそれなりの苦労が伴う。
そこでの生活に必要な様々な物資は人が背負って担ぎ上げるしかない。
現代社会が追い求める便利さとは対象的な暮らし。
でもそれが真木協働学舎のあたりまえの暮らし。

真木共働学舎では、自然と調和した技術、生活を未来につなげる第一歩として、水車製材所づくりを始めている。
真木集落には、その昔に建てられた立派な民家が何軒も残っているものの、それらはみな老朽化し、そうした建物で暮らすあるいは活用するためにはなるべく早く補修、修復しなければならない。
かつての集落の住民に学び、「手作りの生活」を実践しているここでは、こうした建物を地域の資源とエネルギーを用いて、ここで暮らす人々が協力しながら直したり、つくってゆこうとしている。
水車小屋の建設はそのための最初の一歩。
水車小屋の次には、そこで得られたエネルギーを使った木材製材機をつくりが始まる。
そうしてそれがやがて、これからの真木集落のあたりまえとなってゆく。

そのあたりまえが、「それがそこにあるために必要だった時間」を感じる感覚を育むに違いないと思った冬の山村での一日だった。

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