郵便物や荷物を届けてもらうためには、正しく住所を表記しなければならない。
「どこに住んでいるの?」と人に訪ねられれば住所を答える。
その意味からすれば住所はとても役立つし、住民票なるものにも住所が表記されていて、実際にそこに住んでいようがいまいが住民表によってそこの住人であるとされる。
その便利さを否定するつもりはないものの、でも、自分が常日頃忘れずにいたいと思っていること…
「いま私はどこに、どんな時代を生きているのか」においては、住所表記は殆ど役にたつことがない。
自分が多大な影響を受けている詩人・Gary Snyder(ゲーリー・スナイダー)はインタビューで、それは大学の講義での話しだったか、「あなたがどこで生まれのか、いま、どこに住んでいるのかを、住所以外の方法で私に教えてください」と学生に質問したくだりを語っている。
自然保護活動家でもあり、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの作品を原型とする自然文学、20世紀を代表する「ネイチャーライティング」の系譜に位置づけられるスナイダーの文学は、人間と自然との関係をテーマにしたものが多く、その質問は、現代に生きる私たちは知らず知らずのうちに自然を蔑ろにしながら生きているということに対する気付きを促し、そしてまた彼自身の文学が何処に端を発しているのかについてを端的にあらわしている。
先日、妻が一冊の本を購入してきた。
図書館ギャラリーマゼコゼの管理人の彼女がどんな本に注目するのか…。実はそのことは自分にとって「どこに、どんな時代に」を考える上でとても重要なことだと思っている。
マゼコゼには私たち二人の本と私たちに関係する様々な人が寄贈してくれた本が並んでいるが、なんともマゼコゼな本の中に、自分や妻、そしてこの場所を必要だと感じてくださっている人たちが、何を大切にしているのかが見える。
本をすべて読み終えているわけでは無い。
でもぼんやりと様々な背表紙を眺めていると、かつて自分が考えていたこと、いま自分が考えていること、そして自分がこれから進もうとしている方向性がなんとなく見えてくる。学校の図書館や公立図書館ではそうはいかないと思う。
ここを訪れる人全員がそう思うとは限らないが、少なくとも私と妻が何処からここに来たのか、そしてこれからどこへ向かおうとしているのかを、マゼコゼの本棚をつうじて垣間見てもらうことによって、人それぞれが持つ時間と空間を感じてもらえたら嬉しい。
「Cabin Porn 」タイトルの下には、「小屋に暮らす、自然と生きる」と大きく書かれていて、その下には、Inspiration for Your Quiet Place Somewhereと英語がある。
本のデザインからして日本ぽく無い。英語版を日本語に翻訳し日本人向けに再編集したはずの日本語版。
本好きにとっては悲しいけれど、簡単には本が売れないこのご時世で¥3,000以上する本をつくり売ろうというのだから、出版社は少しでも多くの人の目にとまり、売れて欲しいと思うのがあたりまえ。
そのあらわれがおそらく「小屋に暮らす、自然と生きる」という日本語サブタイトルなのだろう。
自分はこうした新刊に付き物の帯というものが嫌いなのだが、この本の帯には世界中の愛好家が自力で創った夢の隠れ家コレクション…とある。
ちなみに英語版にはもちろん日本語タイトルは無いし帯も無い。
ここ数年の小屋ブームに加え、昨年あたりからは小屋ブームの周辺にはタイニーハウスというキーワードが急速に広がりつつある。
かつて夢の丸太小屋と呼ばれ、日本中の別荘地に次々と太い丸太材を使ったログハウスがつくられた時代があった。
そうした時代のログハウス所有者も高齢化し、多くの別荘地には一年中人の訪れることのない丸太小屋が散在している。
中山間地だけでなく別荘地もまた過疎高齢化しているのだ。
かつてのログハウスブームも現在の小屋ブームも、ブームはいずれ通り過ぎるもの。
しかし、つくる場所や大きさや素材が変化すれど、いずれのブームの背景にも人が探し求め続ける共通する何かが潜んでいる。
『ウォールデン 森の生活』(Walden; or, Life in the Woods)のソローやスナイダーもまた、ともすれば失ってしまいがちなものの存在に気付き、それは自分にとって、また社会にとって何であるのかを文学としてあらわしているのだ。
おそらくこの本の翻訳者・編集者は、ただ単に売れれば良いと考えているのでは無いはず。
「小屋に暮らす、自然と生きる」という日本語タイトルに何を託したのだろうか。
いま自分はそう簡単に「…自然と生きる」と言えないしこの言葉を安易に使えない、使いたくない…。
先週、9日土曜日、小諸市のNPO法人「虔十公園林の会」と小諸・茶房読書の森が主催する「環境・景観と自然エネルギーを考えるシンポジウム」が行われ、私もパネリストの一人として参加させて頂いた。
現在、「茶房・読書の森」のすぐ隣り、そして小諸市御牧ケ原周辺には、大規模な太陽光発電所が何箇所も計画、整備、稼働している。
年間の降雨量が少なく、標高が高く、空気が綺麗、そのうえ、過疎高齢化に関連する諸問題を抱える佐久小諸地方は、太陽光発電の最適地として注目されている。
山の木は売れない。田畑を耕す人もいない。
使われない山林や耕作されない農地を自然エネルギーと言われる太陽光を用いて発電所として再利用する。
それも自然、それも生き方…。
いま、私はどこに、どんな時代を生きているのか
自然とは何か
生きるとは何か
私たちは、答えの出ない、出せない話しをもっともっとみんなでしなければならないんだとあらためて思った台地の上の貴重な時間だった。
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