自分でやるから

「たぁくらたぁ」のN編集長から、福島第一原発がある福島県大熊町から白馬村へ避難してきた家族がいるので一度一緒に訪ねてみないかと誘われ、会いに行ったのは震災の翌年の夏の今頃。
あれから5年。まだ5年。

昨年12月、行方不明だった次女・汐凪ちゃんの遺骨のほんの一部が発見された。自宅があったすぐ側、震災直後に寄せ集められ高く積まれたままだった瓦礫の中から。

「汐凪は見つかったけれどそこに嬉しさは湧いてこない。これからも汐凪の捜索は続けます」

発見直後にすぐに連絡をくれた木村さんが私たちに語ったその言葉の中に、福島のいまを、日本という社会のいまを強く感じた。
そして、汐凪ちゃんの捜索は既に木村さんだけのためだけにあるのではないということもはっきりと。
私たちは探し続ける。

震災の直後の2011年4月。石巻市から南三陸町を経由し、岩手県にある森と風の学校の仲間たちに会いに行った。
東北から長野に戻ってすぐのこと、口の中に小さな水泡ができたと思っていたら水泡はまたたく間に口の中全体に広がり、水泡が破れ爛れ、水を飲み込むだけでも痛みを伴い食事することさえままならなくなった。
検査を繰り返し、病名が判明するまでに数カ月。
原因は不明。100万人に1人という粘膜系の自己免疫疾患であることが判明した。
治療に用いていたステロイド薬の副作用によるステロイド緑内障の疑いから投薬量を減らし始めていたその年の年末、右目の網膜を覆う静脈の中心で出血が起こった。その後の処置によって失明こそ免れたものの、右目の視力は著しく失われてしまった。

水泡の原因がわからないまま検査を繰り返していたある日の診察で担当医から、「福島でお仕事とかされていますか」 と尋ねられたことがあった。
妙な質問をするものだと思ったものの、この頃病院では免疫系の異常が認められる患者について何らかの調査をしていたのかもしれない。
もしそうだとしても、この国のいまを考えれば、福島との因果関係は証明できないとされるだけのことだろうが…。
あのときの現実的な痛みを和らげたのは担当医の判断と自分自身の判断であり治療薬であり、そうした判断が結果的に副作用によって別の病を引き起こしたのだとしてもそれは誰の責任でもない。
それよりも、驚きは、とつぜん原因不明の指定難病患者となってしまったことも、眼底静脈の出血によって急激に視力低下してしまったにも関わらず、そうしたことに対して絶望だとか焦りといった不安感が極めて小さかったこと。
考えてみるとそれには、あの大きな揺らぎが関係していたのかもしれないと思うのだ。

人それぞれが抱える傷みや苦しみ、悲しみや絶望、安心や嬉しさといった感情がどれほどのものかを計り知ることはできない。
だからこそ、様々な感情が自らの内に沸き起こることをつうじて、自分とは他の誰でもない自分そのものであることを知ることができるのと同時に、自分以外の他者の存在、その必要性を知るのだと思う。
人は自らの感情と他者の感情を重ねあわせることによって、言葉や行動だけでは表しきれない気持ちを自分から他者へ、他者から自分へと伝えることができる。
その力はほんとうに素晴らしい力だと思う。
そもそも自分の中に生じた感情がどれほどのものかを自分自身で判断することはとても難しい。
そうした中でも傷みや悲しみといった感情は自分から他者へと伝えにくい感情であるがために、自分で思っている以上に心に重い負担を掛けてしまいがちだ。まさに、自分のあの頃がそうだったのだと思う。
にも関わらず絶望だとか焦りといった不安感が小さかったのは、あの時、大きな傷みや悲しみを重ねあわせながら伝えあい、共に生きようとする姿がたくさんあったから。
震災によって傷つき悲しみを背負った人たちが懸命に生きようとする姿、傷みや悲しみに寄り添おうとしたたくさんの人々によって自分は助けられたと心から思っている。

木村さんの白馬の自宅であり、「team汐笑」の活動拠点でもある「深山の雪」では、毎年8月の汐凪ちゃんの誕生日近くにイベントを行っている。
忘れないからはじまる未来2017【原点回帰探検隊 はじめての小屋つくり編】と題された今年のイベントには、たくさんの子どもたち、大人たちが集まり、たくさんの笑い声が一日中森に響いていた。

「ねぇ見てて、自分でやるから」
真剣な眼差しの子供の姿を見ながら、この子たちに伝えなければならないことが、まだまだたくさんあると思った。

※写真は、team汐笑、Ozaki Takashiよりお借りしました

 

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