「環境持続可能性 いのち持続可能性」

昨日は長野県佐久市内にある中学校の家庭科の研究授業にゲストとして参加。
この授業はインターネット通話を用いながら学ぶことも目的としてあるそうで、私は長野市にある自宅からの参加。
普段、人前で話すことには殆ど緊張しない自分だけれど、画面の中の教室の生徒や先生と会話するという形式はどうも勝手が違う。
終始緊張気味の画面端に映る自分の姿が笑えた。
 
1年生の2クラスに向けた今回の授業の主題は「環境に配慮した生活を目指して」
これから調理実習の授業を始める前に、エコロジカルな社会の出来事や活動を紹介することをつうじて、生徒たちが身近な環境へと目を向けるきっかけとしたい というのがこの授業のねらい。
とは言え、正直なところたった1回の授業時間の中で持続可能性について理解してもらうことなどできないし、それは担当の先生こそが解っていたはず…。
では、そこでの可能性があるとしたら、それはいったい何か。

おそらくそれが、「考える力を育むの場」という可能性なのかもしれない。
 
私という人間の思考性の多少が、理論に基づいた知識や方法から学んだことによってつくられていると言えないこともないけれど、いまだその活動はまったく体系化されていない…、と言うか、そんなつもりは端から毛頭ない…。
あるのは、自分の中にふと沸き起こったかのごとく現れる様々な疑問ばかりであり、その疑問を自分なりの方法で解決してみたいということだけ。
別の言い方をすれば、なぜ自分の中にこうした疑問が生じるのかこそが自分にとっての最大の疑問であり、その疑問を解決するために自分は、たまたまそこにあった美術という方法を選択している。
自分にとって美術はそれ以上でもそれ以下でもない。
 
特定宗教に対する信仰心が薄く、世間でよく聞く、前世だとか運命というものを信じていないからと言って、そんな自分を現実主義者だとか実存主義者と言って良いものかどうか甚だ疑問だけれど、少なくとも、この世に存在するありとあらゆるもの、ありとあらゆる出来事は必ず関係しているということは自分の思考性にとっての大前提であり、にも関わらず自分の中にその関係性が見出だせない時に、自分の中に疑問が生じる。
 
そもそも持続可能性とは何かという問いは、「いのち」とは何かという認識によって大きく異なるものであり、個としての「いのち」が滅ぶことがこの世の必然であることからすれば、いま社会で語られる環境持続可能性と「いのち」の持続可能性は似て非なるものなのかもしれない。
人間が生きるための環境持続可能性は大切。
でもだからと言って、一部の人間の都合によって滅ばなくても良い「いのち」があるのだとすれば、そうした「いのち」の持続可能性こそがいま問われるべきだ。
こうした持続可能性は、時間的あるいは歴史軸に沿った思考性、また地方や都市といった地理的、空間的な思考性を持ちつつ、つねに俯瞰で捉え感じようとする感じる力が必要だ。
 
RocketStovesという活動と私という美術家が取り組む小さな建築という活動。
たとえ、こんな活動でも、それを知った人々が、「いのち」の持続可能性について考えてもらえるような場に、今後も関われたらと思う授業後の自分の感想。

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