いまのところ、自分の老化現象の現れは老眼ぐらいだと思ってはいたのですが、最近ふと気が付いたのは、こうなりたいとか、これがしたいという将来の夢や希望のような気持ちよりも、自分の役割ってなんだろう…なんてことを考えることが多くなってきたこと。
これはおそらく、やると言ったままやれていないこと、やり残してしまっていることの方が、自分の夢や希望よりも随分と多くなってしまったということなのかもしれませんが、これこそが自分にとっての顕著な加齢現象なのではないだろうかと思っています。
と言いながらも相変わらず、嫌なことはしない の基本路線に変更はありませんから、これがあんたの役割だよ と言われても、そうそう簡単には自分は動かないと思います…。
そんなことを思いつつ、ここのところ、「考える力」と「感じる力」の関係がとても気になっています。
きっとこれも自分がやり残してしまっていると思うことの中の一つなのかもしれません。
人がこの世を生きる上で、この二つの力、二つの関係性はとても大切。でも、どうしたら「考える力」と「感じる力」は育まれるのか。
その間にはどういった関係があるのか。
自分にはまだそのことがよく解っていない。
美術家なんて名のりながら、やらなければならないことをほったらかしにしてしまっているのも、たぶんここに原因があるのかもしれません。
私たちは学校で、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法である「学問」を学びます。
それは私がかつて学んだ美術大学であっても同じで、美術やArtと関係が深いであろう感じる力の一つ、「美的感性」も、そこでの前提条件的であるだけで、それを学ぶわけではない…学ぶのはあくまでもArt、もしくは美術という学問です。
一方、考える力についても同様に、私たちは学問は学んでも考える力は学ばない。
もちろん、学びの過程において考える力や感じる力がまったく育まれないとは言えませんが、少なくとも学校教育という場にいおいてはそうした力の育みは目的とされてはいないことは事実です。
先日、高1の娘と話をしていた時のこと。
…
娘:勉強の成績が良いからといって、それは必ずしも勉強時間には比例しないよね。
いくら勉強する時間を長くしたからといっても成績がそれに比例して良くなるわけじゃないし…
勉強の仕方という質の違いが成績の良し悪しを決める上で大切な要素だとするなら、その勉強の仕方を学びさえすれば成績が良くなるってこと?
答えはたぶんNOだよね…
それが教われるなら、みんな同じになれるはずなのにそうならないし…
俺:それが脳の違いってやつかな。
娘:そうだよね。勉強の仕方の違いでは無くて、きっと脳の使い方に違いがあるんだろうね。なんだろうね、それって…
でもさぁ、先生たち、知ってるはずだよね…そのことについて。
そう、考える力、感じる力は教えられない。
先生たちだって大人たちだってみんな気付いてるのだと思います。
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