今年2月にBlogの更新をしたのが最後、その後今日まで一度も更新投稿していなかったことに気が付いた。
Blog「美学創造舎マゼコゼ日記」は、自分が書いた文章の書庫でもあり、ここ数年は主にFaceBookに投稿掲載したタイトル付きの文章だけを再度Blogにも投稿するようにしている。
何であれ、自分の過去の記録にあらためて接することは、どことなく気恥ずかしさのようなものを感じるものの、「いま」という一瞬さを感じ捉えるために文章はとても有効だし、過去の記録は貴重だとあらためて思う。
https://mazekoze.wordpress.com/
FaceBookのようなSNSでの個人投稿ではいわゆる政治ネタ、とりわけ、イデオロギー的な要素が濃くなればなるほどに敬遠される傾向が強くなる。
そう言った意味からすれば、個人的な考えや信条を述べるにはSNSよりはBlogの方が向いているのかもしれないが、こうした傾向はSNSの最大の特徴でもある拡散性の高さゆえに生じる傾向なのだと思う。
以前、「こういうところでは本音は語らないものだよ…」と友人から意見されたことがあるが、もちろん自分とて、そういった性質を理解していないわけではないが、イデオロギー的な要素の強い投稿があっとしても、それはSNSとしての成立を否定するものでも無い。
ここで自分が思うことは、「こういうところでは本音は語らないもの」というような暗黙の認識とでも言うか、空気読めよ…的な気配が地雷のようにばら撒かれている「いま」に対して。そしてなによりも、その気配を感じ取れないで負傷するのは自己責任だというような、世間を覆う雰囲気にこそ強い危惧感を覚えずにはいられない。
ただ、なぜこういった気配が世間に蔓延してしまっているのだろうかと考えてみると、そこには、「個人の自由」を盾に、自分とは異なる考え方や異なる意見を持つ人を見つけるやいなや、攻撃をしかけてくる人への警戒心が多分に影響しているのだと思う。
いわゆるネトウヨ的な傾向が象徴的ではあるけれど、もはや自分の意見の正当性を誇示するためには他人への攻撃も厭わない…といった状況はネトウヨに限らず社会のいたるところに蔓延している。
空気読めよ…という暗黙の気配。それは私を深く傷つけるやもしれない地雷…。
この地雷を取り除いてゆけなければ、いずれ人はすべての他人を自分に対する攻撃者だとみなさねばならなくなってしまう…。
こうしたいまに対する唯一の解決策は、自分の考えを自分の言葉で語ろうとする強い意思ではなかろうか。
もはや右とか左とか、思想だとか信条の違いだとか、国籍の違いだとか言って済ませられるような単純な状況では無い。
いま私たちは世間が振るう無差別の暴力にさらされている。
中傷や攻撃するのではなく、自分の言葉で語ろうとする人々の言葉に注目したいと思う今日このごろ。
写真:(c)AFP/ASHRAF AMRA
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