「Whole Earth」

「Whole Earth」
 
SNSの一つであるfacebookにおけるタイムラインという性質上、一度の投稿は時間が経過すれば、膨大な数の新規投稿の下に潜って見えなくなってゆく。だからこそ、誰もが何についてでも気軽に発信できるのことこそがFacebookの大きなメリットということか。
気になっていること、興味のあることについてを発信するといったことからすれば、自分が投稿する内容とてさして大差ない。ただ、自分の興味・関心の多くが、この世に生じる歪みやその周辺に向いているからか、結局のところ答えの出せない堂々巡りばかりが続く。
    
なので、そうした疑問を解き明かす一つの方法として自分はSNSを利用していると言えなくもないが、それについて、まず自分で考えてみる。それを言語化する。自分の考えの結果を伝えてみる。そうすることによって、自分に生じた興味関心が実は、この世のすべてが関係によって繋がりあっているからこそ起こっているということを実感として感じられるかどうか確かめてみたいと思っている。それはまた、1968年に「Whole Earth Catalog」を創刊したスチュアート・ブランドが1995年にTIME誌の中で、
「ヒッピー全盛時代に、権威主義を軽蔑するカウンターカルチャーによって芽生えたコミューンや自由主義的な考え方はその後、管理者を置かないインターネットコミュニティ、延いてはパーソナルコンピュータ革命に必要な哲学的基礎をつくり、サイバー革命という形で実を結ぶことになった」
との主張にもリンクする、SNSをつうじた繋がりを仮想から現実へと変換しつつ、この50年の間にさらに大きく分断されてしまったこの世の関係性をもう一度繋ぎ合わせるための必要な作業であると自己満足的に考えている。
  
先日、ADHDと不登校や引きこもりの関係についての自分の投稿に対する友人のコメントを読みつつ、社会との関わり中で彼女が感じている現実や軋轢、そしてそれに対する彼女の正直な心の内をまざまざと感じとれるのは何故だろうか…と思う自分があった。
嘘もなければ格好つけている感もない。自分が発した言葉に対して彼女は自分へと向かって心の内を返そうとしているだけが伝わってくる。お互いに、顔も声も知っていることや、彼女から前職について聞いていることも関係しているとは思うけれど、伝えようとしている心の内のクリアーさ…とでも言ったら良いか。伝える、伝わる、にとって大切なものがそこにあると感じたのだ。
  
美術表現もまた、自らの心の内をあらわす何らか方法の一つだとしても、そもそも、心に象徴される内なる感情を、自分ではない他人に伝えることができる人が美術家や芸術家を名のっているわけではない。
だからであろう…「伝えるとは何か」について考える時、人間が本能的に備えている「共感」が。そして、いま社会に於いてその共感はどういった有り様なのかが気になっている。
  
論理的に考えれば、「傷み」と同じく、他人の感情は他人のものであり、それを自分のものとして認識することはできないし、共感によって他人の感情がわかるのかどうかを証明する手立てはない。
でも人間は、自分に似た人々や魅力的な人々、アイデンティティーを共有できる人々に対して共感を抱き易く、他人からの共感は精神的な安心感をもたらすと同時に、生きる気力を充実させる。
そのことだけでも、共感は、表現者のみならず、人間にとってとても重要であることを否定することはできないものの、いま社会は、共感を社会を不安定化する要素の一つとして見なしがちであり、共感を否定しないまでも、社会に蔓延する既得権益を存続させるための忖度によって、互いの心の内を伝え合うために重要な共感が封じ込められている気がしてならない。
  
現代社会が抱える生きづらさもまた、既得権益とそれを存続させる忖度から生じていると考えることができるものの、共感による連帯は、単なる感情論の延長とみなされ、結果、既存社会に共感(忖度)できない人々は区別され、そうした人々が抱える生きづらさはすべて自己責任として片づけられてしまう。
誤解を恐れずに言えば、ADHDも、自閉症スペクトラム障害(ASD)に含まれる、自閉性障害もアスペルガ−症候群もそうした既存社会を忖度する方法として都合よく利用されてしまっているとも言える。
 
アスペルガ−症候群が、コミュニケーションや興味について特異性が認められるものの言語発達は良好な、先天的なヒトの発達における障害…とされてはいるものの、コミュニケーションや興味について特異性がなければ、そもそも芸術など生まれやしない。
特定の分野への強いこだわりを示すだけで、もしや…と疑われる社会。特異性や特徴に該当する部分が多いことに気づいて不安感を持った本人が、医療機関に相談し、診断されたことを本人自身が受け入れた時のみ判断されることのいったい何処が障害なのだろうか。たったそれだけの違いで、正常ではないと判断されてしまうのだとすれば、正常な人などいったい何処にいると言うのだろうか。
 
精神医学は今後社会にとって益々重要さを増すであろうし、それについて軽蔑するつもりもない。
しかし、例えば、芸術の専門家が優れた芸術を生むといったことは既に幻想であるということを、芸術を専門に勉強した者であればこそわかるはずだし、そのことについてを世間に知らせることもまたできるはずだ。
そうしたことをつうじて、区別など必要としない、同じ人間として、個性を認めあえる社会へと変ってゆくためには、まずは共感によって関係を紡ぎつつ、世界を全体として表現するというイメージを共有することこそ優先されるべきではないだろうか。
 
 
http://www.wholeearth.com/index.php
 
 
WEC1968

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