「森林の思考・砂漠の思考」

 
もう随分と前のこと。1990年代も終わりに近づいた頃だったと思う。
図書館でなんとなく手にした、「森林の思考・砂漠の思考」鈴木秀夫著(1978)という本がある。
子供時代から、社会科全般が好きだった自分。中でも地理的な社会科が好きだった自分は、暇があれば地図帳を眺めながら、自分が暮らす此処と正反対の荒涼とした砂漠の風景を想像するのが好きだった。砂漠への憧れはいまも変わらない。
そんな自分が「森林の思考・砂漠の思考」というタイトルに目が止まり手を伸ばしたのは、まず第一に、砂漠とは何であるのかが書かれていると思ったからだった。
 
「森林の思考・砂漠の思考」の主題は、人間の思考方法が森林的思考と砂漠的思考の2つに分けられるということ。
森林的思考とは極端に言ってしまえば、「世界は永遠に続くもの」であり、砂漠的思考とは、「世界は始まりと終わりがあるもの」である。
そうした思考はやがて、キリスト教的なるものと、仏教的なるものへと変化してゆくことになるのだが、どちらが優れているとか、どちらが正しいとかではなく、森林、あるいは砂漠に生きることによって育まれた思考それぞれが、人がこの世に生きるために必要であったということだ。
森林と砂漠とは言っても、必ずしも現在の気候風土とそのまま合致してはいないものの、いまから5000年前に地球がいまよりも砂漠化していた頃につくられた思考方法を人類は綿々と受け継ぎ、こうした思考方法が現代の人間に対しても明らかに大きく影響しているとこの本では述べられている。
 
いまにして思えばその本を手にした理由はもうひとつある。
それは、自分が思う美術と既存の美術の有り様に違和を感じていたこととも大きく関係していて、その為にはとりあえず、既存の美術から離れてみることによってその違和感とは何であるのか、なぜそれが自分に生じているのかを知ってみたいと思っていたからだった。
 
Artという概念は、明治時代になってから西洋からもたらされたものであり、識者はこれに「藝術」という言葉をあて、やがて藝術のうち絵画・彫刻といった藝術を「美術」とした。
経済の発展と軍事力の強化によって近代的な国家をめざす富国強兵という目標の下、美術もまた例外ではなく、Artでもある美術はもっぱら、西洋美術をその目標としつつ日本の近代化の道を共に歩んだとも言える。
そうした美術が過去の戦争を経験し、現代へと至る中で表現は多様化し、既に西洋美術そのものも大きく変化してきていることからすれば、もはや目標ではないのかもしれないが、だとしても、日本の既存美術はいまだArtであることに変わりない。
それはようするに、日本の既存美術は砂漠の思考が育んだ西洋文化でもあるArtという概念無くして成立はできないということだと自分は思っている。
     
自分は、だからそこに違和を感じるのかもしれない。
とは言っても、その違和感とは、Artという概念、西洋の思考を否定するということではない。自分がここで感じる違和感とは、思考そのものが何処で、なぜ生じたのかということであり、西洋の思考の中で育まれたArtという概念を、それとは異なる思考によって考えることによって自分の中に違和感が生じているかもしれないということだ。
自分がArtに近づきたいと思ってはみても近づけないのは、Artという思考そのものが、自分の憧れの砂漠と同じく、いまだ自分の想像の枠の中にあるからかもしれない。
だとすれば、まず自分がいま知るべきことは、自分が用いている思考は何処から生じ、どういったものであるのかということ。
そこを明確にしなければ、Artの本質を誤解することにもなりかねないし、明治以降、この国が歩んだ歴史のすべてを否定することになってしまうかもしれない。
そうした上で、自分の思考で、「美とは何か」について考えてみたいと思う。
  
自分とは異なる考え方、思考に対する理解は、自分の思考が何処から生じているのかを知ることから始まるのだと思う。
おそらく自分の思考は「森林の思考」に近いとは思っているけれど、既にこの社会は森林の思考だけでは成立しない。現代日本人の思考の多くは確実に砂漠の思考化している。
グローバリズムの流れによって、社会はより一層多様化し、この国は、多くの外国人と共に生きる、共生社会になってゆかなければならないだろう。
そうした社会に於いて最も必要となることは、言語の習得よりも先に、思考の多様性をお互いが認め合うことではないだろうか。
美術とは本来、そのためにこそあると自分は思う。
だからこそ、これからも自分の思考の原点を探る旅を続けようと思う。
思考の原点である風土について知る旅を。

shinrin.sabaku

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