19世紀初頭のイギリスの哲学者、ジェレミ・ベンサムによる、「快楽や幸福をもたらす行為が善である」という哲学は功利主義と呼ばれ、『正しい行い』とは、「効用」を最大化するあらゆるものであるとした「最大多数個人の最大幸福」というその考え方を、現代社会はいまなお、一つの社会の基準としている。…というよりもむしろ、ベンサムが生きた時代と比較すれば社会構造そのものが大きく変化しているにも関わらず、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」というこの考え方の行き着くその先について正面から論議できない社会であるがゆえに、歪は蓄積され社会の不安定さはさらに増している気がする。そもそもが功利主義はその時代だからこそのものであったはずだが、あれからおよそ200年が経ったいま。快楽や幸福という概念は曖昧さを回避することができなくなっているし、そもそもが『正しい行い』を推し測るために必要であるはずの「効用」が見出せなくなっている。そしていま。正直に言えば…自分には世間を覆いつくす新型コロナに対する取り組みのすべてが、この社会が長らく見出すことのできなかった効用を最大化するため、そしてこれこそが社会にとっての『正しい行い』であるかを示しているように映るのだ…。
18歳になった娘は自分にとって最も身近な10代。この歳にあたる子供たちは民法改正によって、2022年4月1日になった時点で新成人となる。成人したからと言って別に何かが大きく変わるわけではないけれど、二度と訪れることのない子供と大人の狭間は人の成長にとって重要な時。存分にその時を感じて欲しいと思う。その娘がまだ中学生だった頃に、「これ、お父さん興味あると思うよ…」と教えてくれたアニメと小説。それが「PSYCHO-PASS」だった。
舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「PSYCHO-PASS(サイコパス)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測され、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた。 … Wikipediaから
高度な社会システムによって人々のすべてが数値化され管理されているにも関わらず、人々はそれを独裁とも制約とも捉えることなくシステムはさらに強固なものになってゆく。言い換えればそれは、「最大多数の最大幸福」を実現した社会そのものであり、功利主義による社会が行き着く先が描かれている…。
自分は娘に対して一般的な教育らしいことは殆ど何もしてこなかったけれど、持って生まれた体格や容姿は残念ながら別としても、個人の資質や性格は社会から大きく影響を受けている。だからこそ、社会の有り様は人の成長に直接影響するし、人は社会との関係を閉ざさない限り、常に成長できる可能性があるということだけは伝えてきたつもり…。
まだ中学生だった娘が功利主義を理解していたとは思えないけれど、社会との関係こそが人を人として成長させる…と、意味不明なことを何度も聞かされてきた娘からすれば、この物語での重要な登場人物、犯罪者である槙島聖護と主人公である執行官、狡噛慎也との関係をつうじて描くテーマが人と社会との関係性であるということを感じたからこそ、自分にこれを薦めたのだろう。
槙島聖護はその社会を次のように語る…。
「他者とのつながりが自我の基盤だった時代など、とうの昔に終わっている。誰もがシステムに見守られ、システムの規範に沿って生きる世界には、人の輪なんて必要ない。みんな小さな独房の中で自分だけの安らぎに飼い慣らされているだけだ。」
人間が人とのつながりを基盤とせずシステムそのものが主体となった社会を人はどのように感じ、どのように生きるのだろうか…。
現実社会に生きる我々は長い間ずっと、人間だけを社会の中心に置き、人間にとっての快楽と幸福こそが社会にとっての善であるという考え方を変えることなく、そこにその時代に即した社会システムがあった。しかしいま、新型コロナウイルスという他者の出現によって社会は大きく揺らぎ、この社会がこの先、何処へ向かおうとしているのかが問われている。このままで行けば、おそらく現代の社会システムはいまよりもずっと強化され、例えれば「PSYCHO-PASS」に描かれているような方向へと向かうかもしれない。
他者とのつながりが自我の基盤となる社会。少なくとも、社会はそこへとは向いていない…。
自分は、そうした社会を実現するための鍵は、人口減少によって現行の社会システムが既に機能不全を起こしはじめているところなのではないかと考えている。それに加えてもう一つ大切なこと。それは、他者とのつながりを基盤とした文化だと思っている。
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