「On The Road」

勉強は嫌いではなかったけれど、机の前におとなしく座っているのがとにかく苦手だった子供時代。そんな落ち着きのない息子に向かって母は、「ヒッピーと過激派にはなってはいけない。仕事は公務員か教師が一番良い…」と、ことあるごとに言っていた。しあわせのカタチは人それぞれであることは言うまでもなく、あの時代の母親たちが皆同じように思っていたはずはないものの、自分の母が言うそれとは、勉強はしなさすぎても、しすぎても良くない。自分の得意なことは趣味としつつ、そこはかとなく生きることこそが幸せと言いたかったのだろう。それは、当時の日本社会が連合赤軍による浅間山荘事件を機に社会変革よりも優先すべきは自分…の時代へと急速に変化しはじめたことと関係している。そしておそらく、社会が変わってゆく気配を感じていたであろうこの国を生きる人々の本音はきっと、母のそれと同じであったのではないかと思う。それからおよそ半世紀。二度目の東京オリンピックの開催が目前に迫り、いまだ世界的経済大国の地位は揺るぎないと鼓舞するかの年の始まり。東京をはじめ都市部のきらびやかさだけをみれば、この繁栄が永遠に続くかに見えるものの、視点を日本全体に転じてみれば、地方人口は急激な減少傾向にあり、過疎化、高齢化による人手不足や後継者不足といった状況が地方経済に大打撃を与え続けている。こうした現状からすれば、大都市の繁栄ぶりはこの国が陥っている事実を覆い隠すカモフラージュに過ぎないと思わずにはいられない。昨年10月の台風19号の通過に伴って発生した災害は、自分が暮らす、すぐ隣り、千曲川(信濃川)本流に接する、長沼・豊野周辺地域に甚大な被害をもたらした。自分が共に活動している団体は年末年始の活動はお休みで、今回の災害についての原稿を頼まれていることもあって、友人でもある某誌編集長に教えてもらった水防についての文献を読んでみたりしている。「社会的共通資本としての川」宇沢弘文(編集)・大熊孝 (編集)この本の中で大熊孝さんは、「6・水防の心得」の中で次のように書いている。新潟では1978年6月にも越後平野全体にわたる水害があったが、その際には100万人におよぶ出勤があり、技術的にも見事な活動が展開されていた。〜中略〜2004年の水害(信濃川水系、渋海川の氾濫)では消防団が活躍したのは事実であるが、十分に手が回らずに、五十嵐川、刈谷田川の両破堤地点では殆ど水防活動が行われていなかったし、水防倉庫の鍵がかかっていて資材の取り出しが遅れたり、資材が手付かずで残っていたりと、水防活動の低下は覆い隠し難い状況にあった。〜中略〜こうした水防活動における現状は新潟に限らず、全国各地で同じような状況にあると考えていい。〜中略〜堤防の全面強化という苦肉の策は、「技術の自治」を行えるだけの市民力がないので、発達した手段的段階に頼るという構図である。しかし、災害というのは、文明の時代から一瞬にして原始の時代へと瞬間的に放り出されるということであり、避難勧告や命令には限界があり、最後は個人の生きる能力、すなわち、私的段階に頼らざるを得ないということを肝に銘ずるべきである。これを読みながら自分はなぜか、「ヒッピーと過激派にはなってはいけない。仕事は公務員か教師が一番良い…」という、子供時代に母に言われた言葉を思い出したのだ。大都市の繁栄ぶり、それに対する地方社会の衰退ぶり。今回の災害がそのまま、これに直結しているとは言えないが、少なくとも、この国の現状は歪んでしまっていることは事実だと思う。自分はヒッピーにも過激派にもならなかったけれど、美術家という生き方を選択したことによって、人々の選択がいまにどう関係しているのかについて考えることになってしまった。あの時代を生きた彼ら彼女らはなぜ、民衆の支持を失う結果へと向かってしまったのか…。アメリカがイランに対してついにやってしまったという報道になんとも言い難い絶望を感じる。もしもこのままの自分で、あと10年早くこの世に生まれていたとしたら、きっとその時は、ヒッピーか過激派、そのどちらかを選んでいただろうなと思う。

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