利他主義(altruism)

前の仕事が一段落して次の準備のために長野市へと戻ったまま…。東京でスタートした新プロジェクトの大半を仲間に任せ頼らざるを得なくなってしまった状況の中、新型コロナウイルスの感染者数に興味の向かない自分は、現代社会の何らかがこの混沌さへと繋がっているのだとして、まずはこの現代社会とは何であるのかについて悶々と考える日々が続いている。世界的パンデミックを引き起こしているきっかけが新型ウイルスによる脅威であるとしても、いまこの社会が揺らいでいる根底には、現代社会にとっての政治原則の主流である民主主義と経済システムの主流である資本主義があることを忘れてはならないし、これについていまあらためて考えことはとても大切なことだと思っている。民主主義を簡単に言ってしまえば、「国民が主権を握る制度」だとして、それを実現するための方法として最も多く用いられている方法は多数決の原則に従う…ということになるが、議会制民主主義の要でもある国会での多くの審議をはじめ、多数決の結果が必ずしも社会にとっての最善であるとは自分にはどうしても思えない。最も大きな問題は、多数決によって採用されなかった少数の意見が消えて無くなってしまうこと。話しはとても長くなるので途中割愛…いま自分が注目している概念は、正しい行為や政策とは「最大多数個人の最大幸福」をもたらすものであると論じた、18世紀のイギリスの哲学者・経済学者、ジェレミ・ベンサムによる「功利主義」手っ取り早く言ってしまえば、現代社会は未だこの功利主義がもたらす負の側面から脱することができていないのではないか。そのことが現代社会の様々な問題を複雑化させ歪めていて、現在進行形のパンデミックもそこと大きく関係しているのではないかということ。功利主義は最大多数個人の幸福(万人の利益)を尊重するもので、自己利益だけを重視する利己主義(egoism)と同じとは言えないものの、自己利益が多数決によって採用されることが起こるとすれば、利己的を助長する概念にもなり得るのではなかろうか。そうしたことから自分が注目する概念が、同じく18世紀に利己主義の対概念としてフランスの社会学者オーギュスト・コントによって造られた造語「利他主義 (altruism)」明治時代になってから、この言葉を日本語へと変換するにあったては、他人を思いやり、自己の善行による功徳によって他者を救済するという意味を持つ仏教用語「利他」の語が当てられたそうだ。社会の混沌さが増す状況の中、さらにこの混沌を加速させているのは、市民社会がウイルスの流行にだけ関心を寄せすぎているといった傾向は否めない。緊急事態が宣言されたとは言え、一般民衆にできることは「今日は感染者は何人だった」とか「何処で誰が感染したといった話題に関心を寄せ、メディアをつうじて伝えられる情報を信じてこの嵐が過ぎ去るその時をただじっと待つことぐらい。世界の多くの国々の指導者はこの新型ウイルスを人類の敵と仮定して、敵との闘いに勝つという目標にむかって全世界の団結を呼びかけている。自分は、こういったメディアをつうじて伝えられる情報のすべてを嘘だとは言わないまでも、しかし、忘れもしない…東京にオリンピックを誘致する際に行われたIOC総会での安倍首相の「福島の状況はアンダーコントロール…汚染水による影響は0.3km2の範囲内に完全にブロックされている」という、腰を抜かすほど驚いたあのスピーチから始まる社会全体の空気感。2020東京オリンピックという目標に向かって、そして2020を期に日本社会がその先に向かって大きく舵を切ろうとする社会の姿。そうした社会を感じつつ自分が思ったことは、首相が世界に向かって事実とは大きく異なることを言ったそのことよりも、それについて抗議する日本国民はもはや極少数であるということは無論、これをこのままにして先へと進むことがどれ程危険であるのかを想像すらできない社会になってしまっていること、自分たち国民が何を言ってももはやこれは誰にも変えられないという空気感にこの世は覆い尽くされているということをまざまざと感じたことを思い出す。昨日。見るつもりだったのに案の定寝てしまって見ることができていなかったNHKのドキュメンタリー番組。ETV特集「緊急対談 パンデミックが変える世界〜海外の知性が語る展望〜」をぎりぎり、見逃し配信で見ることができた。正直、NHKのニュース番組に対する信頼度は低くなってしまった感はあるけれど、今回のこのETV特集にはNHKの公共放送として持つべき良心を感じることができた気がすると同時にいま自分の中に沸き起こったまま答えが出せないままのいくつかの疑問に対する糸口を見つけられたような気もする。対談は、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ,経済学者・思想家のジャック・アタリ,政治学者のイアン・ブレマーの3氏。進行役はNHK国際報道局チーフプロデューサー・解説委員の道傳愛子。対談の中でハラリ氏はコロナウイルスと戦うという口実の独裁、「全体主義的な体制が台頭する危険性が増している」と警告する。一人の人物に強大な権力を与えてしまうと、その人物が間違った時にもたらされる結果ははるかに重大なものになるというハラリ氏は、独裁者による体制についてを、誰とも相談する必要がないゆえに効率が良く迅速に判断し行動を促すことができる。判断によって間違いを犯してもそれを自ら認める必要もなく、メディアをコントロールしてしまえば間違いを隠蔽することすら簡単にできる。間違いをさらに重ねながら、責任を他の人に転嫁することによって権力を強化し、さらに大きな間違いを重ねていく…。こういった独裁の危険性に対して機能すべき民主主義とは、政府が間違いを起こしたときに自らそれを正す姿勢であり、政府が間違いを正そうとしない時に政府を抑制する力を持つ別の権力が存在するということだと言う。ハラリ氏はまた、こうした状況において、市民には大きく2つの責任があるとも。ひとつは情報や行動のレベル。信ずるべき情報を慎重に吟味し科学に基づいた情報を信頼すること。そして科学的裏付けのあるガイドラインを実行すること。2つ目は、政治的状況に目を光らせておくということ。その決定に参加した政治家たちの行動を監視することがとても重要だと…。しかし、あの時、この国の首相に「福島の状況はアンダーコントロール」だと言わせてしまったことによって、私たち日本人は信じるべき科学的裏付けのあるガイドラインを見失ってしまっていやしないだろうか…。中央政府をはじめ地方行政下に於いては、様々な隠蔽やごまかしの疑いが次々と浮上する中、ハラリ氏がいうところの政府が間違いを正そうとしない時に政府を抑制する力を持つ別の権力になり得るものとはいったい何を示すのであろうか。つづく、ジャック・アタリ氏は緊急事態が民主主義に与えるインパクトについて、安全か自由かという選択肢があれば、人は必ず自由ではなく安全を選ぶ。それは強い政府が必要とされていることを意味するものの、強い政府と民主主義は両立しうるものだと言う。世界的パンデミックによって連帯のルールが破られる危険性が極めて高く、つまりは利己主義が台頭しはじめているということでもあるが、私たちはそうではなくて、もっとバランスの取れた連帯を必要としている。その上でアタリ氏は、「パンデミックと言う深刻な危機に直面した今こそ「他者のために生きる」という人間の本質に立ち返らねばならない。協力は競争よりも価値があり、人類は一つであることを理解すべきだ。利他主義という理想への転換こそが人類サバイバルのカギである。」と言う。自分は少なからず想像力を如何に育むべきかについて考え続けてきたし、これからもそれを自分の行動や選択の基本軸としての位置付けを変えるつもりはない。自分の中に沸き起こる答えが出せないたくさんの疑問は、これからのこの世界を生きると決めた人々にとっての共通の疑問なのかもしれない。アタリ氏も言うように、自分をはじめ、人は未来について考える力がとても乏しく忘れっぽくもある。現在の問題を引き起こしている原因や物事については忘れてしまうこともが多く、嫌なことを思い出すことを嫌うために、それが取り除かれるとこれまで通りに戻ってしまう…。だからこそ、いまについてを多方向から皆で一緒に考えることは極めて大切だと思う。長くなるので、割愛してしまいましたが、政治学者のイアン・ブレマー氏。「みんな!犬を飼え!!」というコメントに、道傳さんが、そ、それはどういった意味でしょうか?という一コマ。「犬は心が安らぐ…人間性を失ってはいけない」この人、信用できるな と思いました。新型コロナウイルスが人類にとってどれほどの脅威であるかはどうであれ、自分はこのタイミングでのこのパンデミックは人類にとって必要な出来事だと思うのです。

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