振動

自分が美術家を志し、そしていまもその生き方とは何であるのかを考え続けられているのは、間違いなく一人の彫刻家との出会いがあったからだ。先日、新型コロナウイルスに苦慮するドイツ連邦政府が、「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」という声明を出して話題となったけれど、それは自分という一人にとっての必要不可欠性と生命維持に対する必要性という点からして、嬉しい声明だった。大学院在学中から若林奮の作品制作アシスタントとなった自分にとって、彫刻家・若林奮は憧れであり、美術家としての道標だった。アトリエでの制作では作品には至ることもないものも数多くあったけれど、自分はただそうした断片をじっと見つめる若林の視線の先を感じながら、それでも今思うと、あの頃のあの時間こそが美術とは何であるのか…作品とは何であるのか…美術家として生きるとはどういったことなのかを最も長く真剣に考えることのできた時間であった気がする。若林には自分から作品のことについても、そのことについても質問したことは一度もないけれど、答えを求めるためにつくるのではないこと。自分が何を見ようとしているのかについて考え続ける必要性。目には見えなくともその先を感じ続けようとすること。想像し続けることの重要性。この世界は私たちが思っているよりももっとずっと広く、すべては繋がりあっているということ。自分は偶然にも、若林奮からそれらを感じることができたのだと思っている。先月、大学の先輩であり若林スタジオでも一緒だった青木野枝さんの展覧会が行われていた美術館で、自分は未だ見ていなかった若林奮の作品集を手に取った。そのはじめには、自分が若林奮に憧れたきっかけとなった文章が掲載されていた。「森のはずれで - 所有・雰囲気・振動」飛葉と振動とタイトルされた図録のページをめくると、若林スタジオの一員として携わった、一般には非公開の「神慈秀明会・神苑の庭」の記録。あの山道の匂いや川のせせらぎの音を今も鮮明に思い出す。いま、先が見えず困惑する世界の中で、「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」ドイツ連邦政府が発した意味…。それはきっとそこと通じるのだと思う。

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