自ら判断して行動する

昨年に引き続き、長野と東京という二箇所拠点生活が続いている。仕事柄、車移動が多いので電車で移動することは少ないものの、先週は打ち合わせがあって山の手線に乗って移動すると、ほぼ8〜9割方の乗客がマスクしている中にマスク無しの自分。まるで自分が映画の中にいるような何ともシュールで不思議な光景だと思ったものの、どうやら既に情報感染は急速に進行していて、もはやしばらくの間は誰にも止められないであろうことだけは確か。このタイミングにもしもそれを煽る風が吹いたら大変なことになるなぁと想像していたその日の夜、政府から唐突な要請があった。政府要請の是非だとか判断責任とか、正直、もはやそんなこと語ったところで社会は好転しない…。火をさらに大きく煽る風が吹いてしまったからには、今後は江戸の火消しの如く、鎮火では無く延焼を食い止めるために何をすべきかをあらためて一人ひとりが考える段階に入ったということではないか。それにはまず、マスクを着用することも手洗いやうがいも否定はしないけれど、とにもかくにも溢れかえる情報を自らの意思で精査し不必要な情報は遮断するしかない。既に蔓延する情報の殆どはウイルスに感染していると思った方が良いだろう。ウイルス感染した情報を人に伝えれば、ウイルスはさらに増殖感染を繰り返すだけのこと。状況を鑑みつつ、この社会は自分一人では生きられないということをけっして忘れずに、共に生きるために自らの意思で判断し行動することがなにより重要だと思う。その結果もしも運悪く、いま騒がれているウイルスに感染してしまったとしてもそれによって社会の最悪の状態…死の観念によって引き起こされる不安の症状が連鎖する精神病質(psychopathy)の社会的連鎖状態であるサイコハザード(psychohazard)の危険性を食い止める手立てとなるならばそれは致し方ないと自分は思うのだが…。私と妻とで運営する「図書館&ギャラリー・マゼコゼ」という小さな場とは言え、ここが人が集まる場所である以上、少なからず不要不急の行動自粛の影響があるかもしれない…。しかし、自分たちが既に20年以上に渡って「場づくり」を続けてきた理由は、社会がいかなる状況になろうとも人と人との関係性を閉ざさないために、自分はいま何をすべきかを此処に訪れる人と一緒に考え続けたいと思ってきたからであり、その理由は今後も変えるつもりはない。「自ら判断し行動する」それをするには責任が伴うし、判断するためには社会の様々を学ばなければならない。でも、自らが責任を追うその先にこそ自由があり、そこでこそ自分以外の誰でももない自分でいられるのだと思っている自分。外は嵐が吹き荒れてはいるものの、あらためて「マゼコゼ」という場所や、自分の仕事である「場づくり」について考える好機が訪れている。吹き荒れる嵐であっても社会が次の段階へと成長するには絶好の風なのかもしれない。いま社会はその大きさに怯えひるんではいるものの、前に進むにはその風に背を背けずに、風が何処から吹いているのかをしっかりと感じることが大切。ナウシカ、アキラ世代の自分としては、ついにこの時代が来たと思うだけのこと。

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