「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」の中止に対しての自分の意見は昨日も投稿したが、その後、美術評論家連盟から「「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」の中止に対する意見表明」が公開された。本来、芸術は芸術家のためだけにあるものではないことは言うまでもないが、世間の関心は急速にここから離れることは容易に想像できることを考えれば、少なくとも、芸術に携わる人はその責任として、ここに内在する問について考え続けて欲しいと思う。美術評論家連盟からの意見表明では、今回の事態は、まさに憲法 21 条に明記された「表現の自由」民主主義の基本理念が根本から否定されたことを意味するとした内容と要望が述べられている。大筋は同意できるものの、あくまでも行政による作品の撤去や隠蔽は、市民の自主的な判断能力を信用せずに、市民自ら判断する権利、鑑賞する権利を奪うことを意味するに留め、展示されている作品については言及せず、当該国際現代美術展の開始当初のすべての展示が取り戻される社会的状況が整えられることを望むとされている。公的組織が市民の自主的な判断能力を尊重し、市民自ら判断する権利、鑑賞する権利、表現や意見の多様性を保障することはもちろんのことであり、それについては否定はしない。しかし、自分としては今回の騒動へと至った最も大きな理由は、その前段階である芸術祭の開催準備段階に、公的組織が市民の自主的な判断能力を尊重するがあまり(この表現は必ずしも妥当ではないが)引き起こされてしまった芸術祭および芸術の脆弱性ではないかと考える。最も重要なことは、展覧会開催前の準備段階に於いて、展示内容がもたらす社会的影響についての検討や議論は、誰によって、どのように、どれだけされていたのかということであり、公的組織および行政はその検討・議論についての報告をいつ、どのように受けていたのかということ。それによって、当該国際現代美術展実行委員会として、展覧会を開催した時に起こり得ることをどのように想定していたのかということ。今回の事態は終始、「表現の不自由展・その後」という展示そのものを一つの表現として捉え、展示作品個々の芸術性は問わず、鑑賞者への問いかけが成功すれば良しとした、言わば現代美術的な視点を中心に置いた上での議論であることに違和感は拭えない。展示を取り戻そうとする力は既に、社会における芸術の必要性、重要性を論じる域を超え、政治的なイデオロギー対立構造へと持ち込まれてしまっている感は否めない。市民からすれば、鑑賞する権利を一方的に奪われたいま、それを取り戻そうとする気持ちが湧起こるのは当然かもしれないが、事態の経緯を考えれば、「表現の不自由展・その後」という展示そのものを一つの表現として捉えるのではなく、展示作品個々の芸術性まで戻った上で、公的組織が市民の自主的な判断能力を尊重しつつ、市民自らが判断する権利によって議論し、考えるための場をまず第一につくる必要性があると思う。その上で、当該国際現代美術展の開始当初のすべての展示が取り戻されるべきであるかどうかについて判断するべきではないかと自分は思うのだが…。

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