「社会的脅威感覚」


この御時世、新型コロナウイルスを怖いと思ったことがない、なんてことを言ったら不謹慎だと思われるのだろうけれど、正直言って自分は、新型コロナウイルスの脅威よりも、コロナ禍に垣間見える、そういった現代日本人の価値観とでも言ったら良いか…日常を覆す事象に直面した時に現れる反応や行動の根底にある日本人の価値観に対して、何とも言いようのない落胆と絶望、そしてそこには脅威に近いものすら感じるのだが…。


第二次世界大戦後の日本人の価値観は、合理主義、個人主義と生命至上主義によって形成されているといった見解に異論はないけれど、言うまでもなく、そもそも合理主義、個人主義、生命至上主義は、日本独自の価値観ではない。
敗戦から既に75年。もはや多くの日本人にとって戦争とは遥か遠くの出来事であり、この国の価値観が、75年前に終結した戦争の敗戦と共に選択された価値観であることを理解することは難しいのかもしれない。


今後次第に新型コロナウイルスの研究と解明が進み、仮に、このウイルスが当初考えたよりも弱毒性であったりとか、季節性の風邪やインフルエンザと同程度の脅威…とかになったとしても、「ウイルスによる脅威」だけは現実として残り、この認識だけは誰にも否定できない事実として社会に確実に浸透したと考えるべきだし、こうした認識が現代日本人の価値観と合わさりながら、今後の日本社会の方向性が形づくられてゆくのだと思う。


既に、AI化やIT技術促進の必要性が方方で語られていることからすれば、増々この流れは加速するであろうことが容易に想像できるけれど、それというのも、そうした流れの先にイメージされる社会像が多くの現代日本人にとっての理想の姿であるからだ。
小さな個人店の多くがこの脅威に対して成す術を失いかけているといった現実があるいっぽうで、GAFAに象徴されるような巨大企業は売上高を確実に伸ばし続けているように、資本主義経済はより大きなものへと集約する傾向にある。
ファストファッションに見られる生産と流通、消費の経済が成立する背景にあるのは、徹底した合理主義によって裏付けされた、マス社会が選択するアイテムを持つことによって得られる安心感。
たった一人の愛する人に好かれる自分であるよりも、100人、1000人、10,000人に好かれたいという願望が叶えられる社会がそうしたところに映しだされている…。
もはや個性を追求する時代は終わり、マジョリティー社会から選択されていることへの証明願望と自助努力を促す仕組み。
それによってGAFA的資本主義はこれからも巨大化するのだと思う。


こういった社会の流れを単に否定するつもりはないけれど、新型コロナウイルスに対する驚異が叫ばれることによって、自分がこの一生で選択する生き方はこの社会の方向性とマッチしないことがより明確になってしまった。
だからいまの自分についてを正しく言うとすれば、自分は新型コロナウイルスを怖いと思ったことがないのではなくて、その脅威を鵜呑みにすることに対して抵抗があると言うことなだけ。


この新型コロナウイルスによって定着した「社会的脅威感覚」が、いわゆる自粛警察だとか様々な同調圧力といった行動を生じさせているのかもしれないが、なによりも、こうしたことの背景にあるのが、戦後75年を経てつくられた現代日本人の価値観であるとすれば、この75年の間に日本人は何を得て何を失ったのかについてを、渦中のいまだからこそ考える必要があるし、それをするならいまが絶好のタイミングだとも思う。
と同時に、自分の今後の目標は、非合理的な方法で、より多くの人と共同することによって、人間のスケールだけで生命の価値を測ることのないものづくりがしたい。


私たちにとっての本当の脅威とは何であるのかを共に考えることのできる社会であって欲しいと思う。

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