「社会との最低限度の関係 その1」

ここ最近、心の中がどうもざわざわする。これもまた新型コロナの影響なのかもしれないと思ったりもするけれど、一年のうちで師走から年末年始にかけてのこの季節がすこぶる苦手な自分。かつてクライミングに明け暮れていた頃には、この時期には何度も国外逃亡していたけれど、いまとなってはそれもできず…。

我が家の朝は、BSチャンネルのワールドニュースを横目で見つつ…という日が多い。フランス,ドイツ,イギリス,スペイン…それぞぞれの国内向けの主要ニュースの中からNHKがピックアップしたニュースではあるけれど、それでもそれは日本国内向けのニュースではないわけで、自分にはそうしたニュースのどれもがどこか映画を観ているようで現実感がないというか、でもそれだからこそ逆に、日本国内に向けて流されているニュースを咀嚼することができるというか…現実感の無さが逆に目には見えない関係性を際立たせるような気がしている。

新型コロナ第3波に対する対応策に関する話題とワクチン開発に関する情報が日々増えているけれど、何日か前には世界主要各国が2030年前後からガソリン車やディーゼル車の新車販売を禁止し、地球温暖化の主要な要因とされる温室効果化ガス(主に二酸化炭素)の排出量を2050年あたりを目標にゼロにする取り組みを政策として打ち出すなど、脱炭素化社会に向けての世界的な動きが急加速しはじめていることを伝えていた。

自らが経験したことによって得られる知識や情報ではないこういったニュース情報は実に一方的にもたらされるもので、考えてみればそれはきわめて暴力的であるとも言える…。ニュース情報は事実を歪曲してはならないことが前提だとしてもそれが真実であるということではないし、国が違ったり立場が違えば物事の捉え方も、情報の伝え方も異なってしまうように、そもそもニュース情報とはいい加減なものだと思ったほうが良い。情報だけをいくら掻き集めても真実にたどり着くことなんてできないのだから。

とは言っても、それがいま起きていることである以上、情報には必ず関係性があるはずだ。家庭ごみの収集日を確かめるだけなら情報の関係性なんて気にすることはないけれど、自分がいま何処にいて、これからどうすべきかを知りたければ、情報の背後にある関係性こそが重要で、情報と関係性によって繋ぎ合わせて現れるもの…それが目には見えないいま・ここという社会そのものの姿なのだ。

現代社会がより個人主義的傾向へと向かう理由の一つは、このあたりと大きく関係しているのだと思う。膨大な情報の中から欲しい情報を見つけるにはそれなりのエネルギーが必要だし、そこからさらに情報と情報との関係性を見つけ出すことはけっして簡単なことではない。水の流れのように、人は基本的に楽で楽しいことに対して敏感で、難しいことよりも簡単なことへと流されやすい…。そういった人間心理が間違いということではないにしろ、一方的な情報が溢れ返る現代社会の中では、社会との関係は最低限度維持しつつも、自分の興味以外の情報は遮断することによって面倒臭いことに巻き込まれないようにしようとする心理が生じやすいのだと思う。

ここで注目すべきは、「社会との最低限度の関係の維持」という点。家庭ごみの収集についての決まりごとや、住民票の取得方法、電気料金の支払い方法等々…社会集団生活を営む上で必要な情報や決まりごとは、社会との最低限度の関係の維持にとして必要なことで、社会の決まりごとを守らなければ罰則を受けるといった理解もそこに含まれる。社会との最低限度の関係の維持とは社会ルールには従いさえすれば、自分にとって必要な自由は最低限度保証されるといった思考に近いと自分は思うのだが…。昨日からのニュースでは、香港の裁判所が去年の大規模な抗議デモに関連し、無許可の集会への参加をあおった罪などで、民主活動家の黄之鋒氏に禁錮13か月半、周庭氏に禁錮10か月をそれぞれ言い渡したことを伝えている。ニュースは続けて、「香港の民主化運動への支援を国際社会に訴えてきた中心的な活動家が収監されることになり、各国からの批判が一層高まることが予想される…」とも伝えてはいるけれど、そもそも各国からの批判とは何なのだろうか。自分が暮らすこの国の個人主義的傾向とこのニュースが言うところの各国からの批判という部分とに何とも妙な違和感を感じるのは自分だからなのだろうか。新型ウィルスが地球環境の悪化と関係しているかどうかは別としても、少なくともいま起こっているすべてには必ずや関係がある…。

新型コロナウイルスという脅威が世界中を席捲しウィルスの脅威から脱しようとする思考が張り巡らされているいま。その思考性はいままでばらばらだった多くを結びつけ得る強力な引力を帯びている気がしてならない。脱炭素化社会に向けた取り組みのような世界的変革のスタートは、コロナ禍といういまというタイミングが確かに有効なのかもしれないし、政治活動に対する中国の統制が強まるなか、香港の民主化運動への支援を国際社会に訴えてきた中心的な活動家が収監されることもまた…。それに対してイギリス外相の声明を聞きながら、そもそも自由の概念とは揺るぎなく強いものではなく繊細で壊れやすいもの…。そうした概念もまた社会の変化と共に急速に変わりつつあるのかもしれないと感じる師走の朝。

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