年末年始がどうにも苦手な自分は毎年ここをどうやって乗り越えるかが一年の最初で最後の重大な問題。年が変わり世間が動き始めた今頃になればようやく心の平静さを取り戻せるような気がしてくる。今シーズンの長野は雪の降る日が多く、降雪量が多ければ当然のこと暮らしにとっての大変さは増すけれど、自分にとっては冬という季節が、とりわけ雪の日が増えるこれからの季節が一年の内で最も想像力が掻き立てられる。
社会は未だコロナ禍にあり、地球温暖化がもたらす深刻さもあるのだろうけれど、それでもやはり冬はやって来て雪は降り積もる。降雪は甚大な自然災害を起こし得る危険要素であり、時に社会活動の停滞を余儀なくさせることからすれば、雪との関係は生命に直結している。吹雪の雪道を車で走っているだけでも、多少は自分という生命を感じるし、そんな時は焦りというよりはむしろ冷静さが増すと同時に自然との関係を普段より強く感じるのは、自然と強く関わることによって自分という生命に気付くからだと思う。降雪による被害があったとしてもそれは季節限定的、地域限定的であることからすれば、ウイルスに対する脅威認識との間に違いがあるのは当然のこと。脅威度を比較する必要はないけれど、だとしても、どちらもが自然であることからすれば、私たちはいま、自らの生命もまた自然であり、この世のありとあらゆる生命が自然との関係の中でしか存在できないことを感覚をつうじて認識できないからこその戸惑い、そして混乱ということか。だからこそ、このウイルスを人類にとっての敵として、いまをコロナ禍であるとして、いずれ人類はこのウイルスとの戦いに勝利し、災いは収束すると信じているのが いま なのかもしれない。
私たちは過去の歴史をつうじて学んだことをいまに置き換えて考えてみる必要があるのではないか…。そしてあらためて、ウイルスが私たちにとって戦うべき敵なのかどうかについて考えてみてほしい。
自分の正直な気持ちとしては、この新型コロナウイルス禍は収束しないと思っている…。と言うよりはむしろ、ウイルスとはそもそも戦うべき対象だとは思っていない…。ウイルスとは人が自然についてを、生命とは何であるのかを知るための重要な手がかりであり、人はこれによって、生命と真剣に向き合う絶好の機会だと自分は思っている。人が雪と共に生きる道を歩んできたように、ウイルスの脅威を正しく認識したうえで、人とウイルスとがこの世で共存してゆく道を探ることができるはず…そうしなければ人類は自然の中に生きられなくなる…。
この世の多様な生命の繋がりこそがそれぞれの生命を支えていることを教科書のうえだけで理解するのではなく、身体感覚としてリアルに感じるための絶好の機会がいまなのだと思う。そのためならば自分はワクチンの開発も接種も否定しない。ワクチンはウイルスとの戦いのための武器としてでなく、人が自然とは何かについてを学ぶために、ウイルスという自然を恐れることなく、共に生きるための道を見つけるためのに用いられるものであって欲しい。
「カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム」「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない」アイヌ語のこの言葉が持つ意味について、今年は是非たくさんの人と一緒に考えたい。皆さま、今年もどうぞよろしく。
コメントを残す