「発達障害かもしれない大人たち」

もう随分と前のこと。友人の気功治療院の院長から、「小池君さぁ。この本読んでみてよ。俺はこの本読んで物凄く楽になったんだよ…」と言われて渡されたのが、「発達障害かもしれない大人たち」という本だった。院長は普段からいわゆるKY的な発言や行動が多めな人で、多かれ少なかれ周囲の人達もそう感じていたであろうし、院長自身からもそうしたことが理由で失敗したことや苦労した話しも何度か聞いてもいた。自分もまた院長の発言にムカつく野郎だな…と思うこともたまにあったけれど、院長の真っ直ぐさというか正直さは嫌いでは無かったし、そうした院長の性格ゆえに、たくさんの人と人を繋いでいることを知るにつけ、KYであることはこの社会にとって必要性であり重要なことだと感じていた。

院長いわく、「小池君もさぁ、生きづらさを感じているんじゃないかと思ってさ。だって、そうじゃなければあんな場所つくらないんじゃないかと思ったんだよ」…と。あんな場所とは、借家を改装しまくりの、壁や屋根を覆う植物を植えまくり、かと言ってこれといった目的もないままにつくっていたPlangtercottageのこと。院長はPlangtercottageに訪れる言わば常連の一人でもあって、あの場をつくり続ける理由についてずっと気になっていたのだろう。ある日その本との出会いによって、院長自身が抱える生きづらさは何処から起こるのかという疑問に対する答えとPlangtercottageをつくり続ける小池という人物の間には共通性があると感じたらしかった。

高機能自閉症、アスペルガー障害、AD/HD、精神遅滞といった発達障害。そうした数は5~6人に1人以上が存在する可能性があるそうだ。「発達障害かもしれない大人たち」の著者自身が発達障害を自覚している臨床医であり、発達障害の立場からの分析や、対処、発達障害の人のことをどう理解するかがとても分かり易く書かれていて、発達障害について興味のある人にはお勧めできる本だと思う。気功治療院の院長から、君も発達障害かもしれないよと言われ、この本を薦められて読んでみて思ったのは、そうと言ってしまえばそうかもしれないけれど、だからと言って自分は院長のように、自分が発達障害を自覚して楽になれたという感覚はまったくなかったし、そもそもが生きづらさの解決方法としてPlangtercottageをつくっていたということではなかったはずだし…。

場とは何か。多様性と美との関係性を確かめたくて場づくりをはじめてから20年以上が経つ。自分にとっては場をつくることも美も、そのどちらもが目的とは言えないけれど、場にとって多様性を如何に自然に受け入れるかはとても重要であり、思ったよりも随分と時間は掛かってしまったものの、多様性を空気のように感じることができる場は美の本質を内在させているということについては確信することができるようになった。美とはそれのみで存在し得るものでなく、この世に存在するありとあらゆるものが関係性によって結ばれ紡がれる際の、言わば結び目をつくる手の動きのようなもの。この世が無数の関係性によって紡がれる場であるとするならば、この世とは美が無数に存在しているということ。美とはつくり出すものではなく既にここにあるもの。それが自然であり、人はそうした自然がつくる場の中に身を置くことによって美の本質を理解できるのだと自分は理解するようになった。美しい自然というものがあるのではなく、どの自然であれ既にそれだけで十分に美しい。そこにある美しさに自らが気付けるかどうか。この世のすべては関係性によってできている。

自閉スペクトラムまたはアスペルガー症候群と呼ばれる発達障害を例とすれば、社会性・コミュニケーション・想像力・共感性・イメージすることの何らかの異常、こだわりの強さ、感覚の過敏などを特徴とする自閉症スペクトラム障害と呼ばれるもののうち、知能や言語の遅れがないものについてをそう言うのだそうだ。自分がこれまで出会った美的感性に抜きん出た人の多くはまさにこうした傾向に一致する。そもそも人間誰しも自閉症的な部分は多かれ少なかれ持っているし、5~6人に1人以上に発達障害が存在する可能性があるとするならば、発達障害は既に社会の多様性の一部だと言っても良いはずなのだが、いまだ社会はこの多様性を空気のようには感じようとはしていないのが現実。社会のスタンダードは未だ「普通であること」であり、大くの人がたとえ本当は普通では無いと自覚していたとしても、普通という枠組みからはみ出さないようにすることによって社会の安定が確保されている…。そうした社会に蔓延する無自覚な普通の強要こそがこの社会に生きづらさの本質であり、そういった普通が個性を障害にすり替え区別する。多様性と共にある美しさもまた、これによって見えなくなってしまっているのだと思う。

実存主義の代表的な思想家の一人として知られるニーチェは著書「ツァラトゥストラはかく語りき」の中で「神は死んだ」と宣言する。キリスト教が社会の絶対的倫理であった西欧社会のその時代におけるこの宣言はキリスト教の否定として捉えられたとしても無理はない。けれどニーチェが最終的にたどり着いた「超人思想」から遡れば、「神は死んだ」とは、自分の外に自分を支配したり、命令したり、自分を価値づける権威を置かないということ。その神は現代の日本でいえば、偏差値の高さであるとか有名であるとかがそれであり、そうしたの背景には必ず「普通であれ」という権威が横たわっている。

「既存の観念にとらわれない」「リスクがあっても挑戦する」「空気を読まず、自分の信念に従う」といった発想や行動が求められているとは言われてはいるものの、社会は未だ「普通であること」という権利に盲従している。自らが感じる生きづらさの本質はそこにあると気付かない限り、信念や想いによって考えたり行動することのみならず、人種的な多様性、文化やライフスタイルの多様性を自然に受け入れられる社会にはなり得ない。

社会が抱える生きづらさの本質を解く鍵は発達障害かもしれない大人たちが持っているのかもしれない。そんな疑惑を自分にも向けられているのであるとすれば、もう一度ポケットの中を探りその鍵を探してみようと思っている。

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