「移住」

長く暮らした東京から長野市の善光寺門前町へと家族と共に移り住んだのは12年前。長野市出身の自分にとってはUターンということになるのだが、そんなことよりも先に、過疎化高齢化に伴う問題が深刻化を増している地方自治体にとっては、その対応策としての移住こそが重要なのだ。

高齢化に伴う生産年齢人口の減少は産業の衰退を招く要因であると同時に、自治体の財源に直結する問題であることは言うまでもない。国はそうした地方公共団体の財源の不均衡を調整し、どの地域に住む人にも一定の行政サービスを提供できるよう財源を保障するために地方交付税制度を設けているとはいえ、日本全体の人口もまた減少の途上にあって、これは当然のこと日本経済の何らかに影響するであろうし、となれば地方交付税にもその影響が及ぶであろうことも想像できる。ちなみに、自分が暮らす長野市の平成元年の歳入は1,657億1,800万1千円、歳出総額が1,636億4,773万8千円。歳入は、市民税や固定資産税などの市税が、586億円(歳入全体の35%)国・県支出金は350億円(21%)、地方交付税は235億円(14%)歳出は、児童・高齢者・障害者福祉などに充てる民生費が547億円(歳出全体の33%)以下、総務費が179億円(11%)、土木費が177億円(11%)公債費が160億円(10%)かなり大雑把に捉えれば、人口が減少し高齢化が増すと、歳入の市税割合が下がり、歳出の民生費割合が増加するということになる。

統計から未来を予測することは大切であり、それはそれとして重要だと思う。けれど、過疎化や高齢化という統計は単に傾向を数値化した際にあてがわれる言葉であり全体の中の部分にすぎない。それだけで社会全体が見えるわけではないことを私たちは忘れるべきではない。移住という選択を、単に過疎化や高齢化によって生じる不足に対する補填策としてでなく、その選択が移住者はもちろんのこと、移住者を受け入れる地域にとっても価値ある選択とするためには、移住をとりまく社会全体を俯瞰して捉える必要があると思う。とは言え、過疎化高齢化によって生じる人手不足によって、地域にとって必要な活動が滞ることからすれば、高齢者に代わる地域の担い手はいますぐにでも必要な状況であることもまた確かなこと。そういった必要性から移住という選択を推進したいと焦る気持ちも理解はできる。ただ、こうした問題は地域の中で語られることはあっても、そういったことが表立って語られることは稀で、特に移住者と地域との間でどのような関係を、どのようにつくっていったのか…といったことについては外部には殆ど聞こえてこない。

自分たち家族が長野市へと移住すると決めたのは、自分が生まれ育った地域に、老朽化はしてはいたものの自由に改装できる空き家物件に出会えたからだった。家族としてこの町で暮らし続けるためには、この地域との間に関係を育むためのきっかけとなる場が必要だと考えていた自分と妻は、移り住んですぐにMAZEKOZEという場づくりを開始する。移住する理由は人それぞれだろうけれど、夫婦のどちらかが生まれ育った地域に移り住むという選択はよくある話しで、自分たちも御多分に漏れずその選択によって長野市へと移り住んだのだった。

地元生まれで土地勘もある自分と雪道を歩くことすらままならない妻。MAZEKOZEの活動の中心は、私たちがいま大切だと思うものの展示…で、主に妻が担当。特に決めているわけではないけれど、展示して貰う人々のおよそ2/3が長野県以外で生まれ育った人。1/3が長野市とその近郊で生まれ育った人 といったところか。移住者でありながら地元育ちの自分は基本的に外周りの仕事。長野市を中心に半径100㎞圏内+東京圏を拠点として仕事することが多い。そんな自分たちがつくる場には、長野市やその周辺に移住してきた人、移住を考えている人も頻繁に訪れる。移住はMAZEKOZEにとってはとても身近な話題であり、移住者だからこその視点と地元住民の視点からの話しをつうじて、長野市のみならず日本社会がいまどういった状況なのかが実に良く見える。

自分たちが此処へと移り住むと同時に小学校に入学した娘は高校の最終学年になり、この春からは長野を出ることが決まっている。長野市へ移住した少なからずの理由は、子育ての環境としての選択であったと思っているけれど、自分たち親の選択が彼女の人生にどう影響するかについては今はまだ何もわからない。自分たちの場合。子育て経験がない自分たちは、子供が生まれる前から暮らしていた地域で、地域の仲間達と関係しながら子育てを始めることが良いと考えた。それと言うのは特に、子育ての大半を担う母親が孤立せずに悩みをうちあけられる環境がそこにあったし、足りない関係はここならばつくれると思ったからだ。そもそも子育てに適した環境という基準はない。自然豊かな環境も東京のような環境も、そのどちらかが正解ということでないけれど、人は関係によって育まれる生き物であることだけは確かだと自分は思っている。少なくとも、子ではあっても人である以上は、親との関係だけでこの世を生きては行けないし、人との関係をつうじて子供を育てることはとても重要だ。その意味からすれば、移住によって人との関係を築き易くなると思うのであれば、移住してみると良いと思う。自然との関係は、人と人の関係を円滑にする潤滑材のようなものか。そもそも自然はどこにでもある。それに気付くか気付かないかの違いだけだと思う…。

子供を育てるための移住。それが終った後は自分たちの生き方選択に即してまた移住する…。少なくともそういった選択は間違いとは言えないどころか、今後ますます深刻化するであろう過疎化・高齢化の問題を抱えるこの国の選択肢としての可能性、有効性についてを真剣に考える必要があると自分は思っている。安直に考えれば、高齢者は自然条件の厳しい山間地域に暮らすよりも、平坦で買い物にも便利な都市部に暮らす方が身体への負担は少ないはずだ。しかし現実はその逆で、高齢者が山間の過疎地に残り、若者は山間地域を離れ都市部へと移り住む。そうした状況を招く要因は「働き方」であり、「子育て環境」であり、そして何よりも、地域を守り継ぐといった信条を支える「死生観」がそこにある。人は死に、そこが還る場所であるならば、誰かがそこを守らねばならない…そう考えるのは当然だと思う。

過疎化・高齢化の対応策として重要な可能性が「移住」であることは否定できないけれど、移住をその先の選択肢とするのならば、自分たちが抱き続けている既成概念を根本から問い直し、人が生きるためには何が本当に必要なのかについてを考える時期が間違いなく訪れているのではないか。移住に可能性を見出そうとするならば、数値化された部分を見るのではなく、過疎化・高齢化という現実の中に一人の人間として足を踏み入れ、かつて人が暮らしていた場所を離れざるを得なかったそのことについて想像し、荒廃する状況を前に、自分の中にやるせない気持ちが沸き起こることを確認する必要がある気がしている。

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