「拡張された芸術概念」

学校も、がっこうであっても、自分にはその響きが心地良くは聞こえない。それは嫌いだから…とかではなくて、学校やがっこうというその響きから感じる何か…それを自分は心地良くないと感じているということ。もしgakkouではない別の響きを持つ言葉をあてがったとしても、心地悪さを感じさせている本質に蓋をしたままでは単に言葉を浪費するだけで同じことが繰り返されるだけのことだ。

18世紀を生きた哲学者、イマヌエル・カントは、人は「感性」と「悟性」の二層構造でこの世を認識していると考えた。認識は人のあらゆる活動の根源にある行為。ヒトの外の世界を人が感覚を通じて如何に認識していくかを問う認識論は、存在論、形而上学と並ぶ哲学の主要なテーマとなっている。感性とは、この世のから与えられるさまざまな感覚を、非言語的、無意識的、直感的に感じとる力。しかし、感性で感じ取ったこの世は間違いなくこの世の現実ではあるものの、感性によって働く様々な感覚によって受動的に捉えたこの世の断片は、ぼんやりと掴みどころのないイメージとして漂ったままの状態で、そうしたイメージを自発的に整理し秩序づけるのが悟性ということになる。とすれば、自分がgakkouという響きを心地良く感じないというこの世の現実は、感性によって捉えた響きだけでなく、他の様々なイメージが悟性によって整理され秩序付けられ認識されたものであると考えるべきだろう。

自分があえて美術家を名のりつつ、自分でもいったい何をしているのかと思うほど様々なことが気になってしまうのもまた、ここと大きく関係している。人は社会によって認識された現実ばかりを注目しがちだけれど、もしもこの現実を変えられる可能性があるとすれば、それは、人が感覚を通じて如何に認識していくかの過程にこそあるのではないか…。

感性によって感じたイメージが悟性によって整理され秩序付けするために概念があって、そのの概念によって現実社会となって現れているのであるとすれば、先ずはその概念とは何であるのかを知らねばならないのではないか…。自分が理解するArtとはそうした概念を検証したり、つくり変えたり、新しくつくったりすることができる、「人の誰もが、持とうと思えば持つことができる力」のこと。ことさらContemporary artの主要な目的は、変化させるべき現実と変えてはならない現実についてをそういったArtによって表現することでもあるので、Art作品を前にした時、先ずはこの社会を形づくる既成概念そのものを疑い、または取り払って感じなければ何も始まらない…。Artは解らない、理解できないと言われるのも当然だとは思うけれど、これをこのままにしておいても良いということではないと思う。

Artにとって重要なことは、「そう考えることが当然だ」という既成概念そのものに自分自身が縛られていないかという部分であり、Artは問であって答えではないということ。これについては、Artが美術や芸術として日本語に訳されてしまったことから誤解と混乱が生じてしまっていると思うのだけれど、自分の経験的には美術大学でそのことについて教わった記憶はまったくない。

そもそも概念とは、法律や法則ではなく、こういった時にはこう考える…といった、思考の基礎となるように意味づけられたものにすぎないのだ。例えば、ゴミの分別方法や処理方法が審議され法制度化された以上、これに従うことは当たり前の社会的ルールではあるけれど、人それぞれが感じるゴミとは何であるのかという認識と、法律によって定められたゴミの認識は必ずしも一致するわけではない。ルールは社会秩序にとって必要ではあるものの、ルールに従うことが当たり前のこととして慣れ過ぎてゆくと、人それぞれにあったはずの個人の認識は次第に薄れ、ルールだけが既成概念化してゆく…。もちろん、一人ひとりの認識によって社会秩序を保つことは難しいことは認めざるを得ないけれど、概念が既成事実化し、人がその既成概念を疑うことなく受け入れるようになることによって、人それぞれが感じ考え、そして認識するといった力が衰えてゆく。

それは言い換えれば、人間らしさの喪失に他ならないのではないか。コロナ禍のいま。この社会を構成する様々な既成概念が当たり前という同調圧力となってしまっていることもまたその現れであるような気がするのだが。

私たち人は、特殊な能力を持たない限り、自分ではない他人が何をどう感じているのかについて何も解らない。だからこそ人は、感性によってこの世を感じ、様々な概念をつうじて悟性によって人が何をどう感じたのかを想像し認識する。この世の現実を導き出すために様々な概念があり、人が人としてこの世に存在するために変えられない概念もあれば、人が社会によって成長しつつ、検証し、変えるべき時には変えなけばならない概念もある。それを見極めるためには、何よりも先ず、「感性の自由」が保たれなけばならない。Artは「感性の自由」を保つ力であって、Artistが占有するためのものではない。しかし実際には、Artは難しく解らないものという既成概念を超える手立てが乏しいいま、Artはその役割を十分には果たせていない…。Artと美術は、共に感性の自由に関係するものではあるけれど同じではなく、美術が「美」という実に厄介で曖昧な概念と関係するものであることからすれば、「美しさを感じる自由を保つためのもの」…しかし美術もまたArtと同じくその役割を果たせているとは言えないだろう。それは、この世の現実が美しさを覆い隠してしまっているからではないか…。美術にたずさわる者の一人として、美しさに覆いかぶさるこの世の現実から解き放ち、誰もが美しさを感じる自由を取り戻すためにすべきこととは何なのか。

自分にとってArtとは何かについて考える上で欠かすことのできないArtistであるヨーゼフ・ボイスは、東西が分裂していた当時のドイツの状況下において、体制や資本などではなく、人々の「創造性」こそが社会を形成するとした「拡張された芸術概念」とともに「社会彫刻」という概念を提唱している。ここで言う「創造性」とは、Art作品を作るときだけに使われるものではなく、誰もが持っている能力であるからこそ、「それぞれの人がそれそれの労働の中で芸術家として生きることが出来るのだ」とボイスは言う。労働とは人間の手作業であり、手は人間の意志を表わす。仕事とは表現であり、その人の全てを意志として計らずも表現している…。日常的な「労働」という営みをどのようにしてArtとして再定義するかといったボイスの試みの数々は「感性の自由」に覆いかぶさる既存社会を形づくる既成概念に対する真正面からの挑戦でもあったことは疑いようもない。自分は未だボイスのそういった挑戦と思考のすべてを理解しきれてはいないけれど、それならば、自分もまたArtと美術をつうじて、ボイスの思考を自分の感性によって感じながら、Gakouという響きを心地良い響きとして感じられるようになるための挑戦をしてみたいと思っている。

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