図書館ギャラリーMAZEKOZEが、一地方都市の片隅とは言え、というよりはむしろ、一地方の片隅のギャラリーだからこそ、この場をつうじて社会とどう関り持っているのかという現状と、今後社会とどう関わりを持とうとしているのかについて考え、そして、伝える必要があると思っている。
勿論これまでも、これについては常に考えてきたことではあるものの、社会が新型コロナという混乱の只中にあることも多少は関係しつつ、しかし何よりも、12年前に娘の小学校入学と同時に自分たち家族が長く暮らした東京から長野市へと移り住み、その娘がこの春、高等学校を卒業し此処を離れること、そして自分と妻は此処に住み続けることは自分たちにとっての節目のようなもので、そのことが大きく関係していると思う。妻がこれについてどう思っているのかについて、まだ詳しくは話してはいないけれど、娘がこの世に誕生してからいままでの間、娘の成長と自分たちがつくろうとしている場の成長は常に同調させながら考えてきたことは事実であって、しかし今後は、そうした同調は彼女にとっても自分たちにとっても必要が無くなったということでもある。とは言っても、もう知らないとか縁を切るということではないけれど、彼女(娘)にとっては、これからの生き方とそのために必要な力とは何であるのかを見つけるための数年間であることを思えば、自分にできること、自分がすべきことは、自分が目指す生き方を実践することであって、そうしたことが彼女からどう見えるのかは判らないけれど、自分が彼女にしてやれることはそれぐらいしか思いつかない。
かつて、自分がいる場所がいわゆる美術やArtのプロフェッショナルが生きる世界だと気付いた時の言いようのない閉塞感…というか、「あれっ、俺はなぜここにいるのだろうか…」という思いが沸き起こると同時に、美術やArtのプロフェッショナルへの関心が急速に薄れて行く自分がいた。月並みな表現をすれば、人生には幾つもの分岐点というものがあって、自分もそこへと差し掛かっていただけのことだとは思うけれど、あの時の自分の目の前には、何処までも続く美術やArtのプロフェッショナルが歩む道筋がはっきりと見えていたし、自分がその先を歩むためにその道を選択することも不可能ではなかったと思う。どの世界のどの道であれ、プロフェッショナルとは、先人たちが切り開いてきたその道筋をまっしぐらに突き進み、道が途切れたら自分が道を切り開く覚悟を持つことだと思う。だからこそ先を行く者は評価もされるし尊敬もされる。自分はそうした先人たちを何人も見て来たし、今も尊敬すべきArtitが身近にいることは幸運だと思っている。
自分は美術もArtも嫌いになったことは一度もないけれど、しかしあの頃の自分は、自分が登る山に迷っていたのだと思う。山を目指す登山家にとって、世界にたった14峰しかない8,000メートル峰を登頂することは格別の意味を持つ。未だその14峰すべての登頂に成功した人数は世界でも40人に達していない。美術やArtがそうした山だとして、自分はそうした世界に名の知れ渡る山に登りたいのかどうか自分でもよく解からないまま、しかし自分の周りは既にそうした山を目指す人たちばかりで、自分もまたその中にいることにふと気付いた時だったのだと思う。そして、何を思ったのか…自分は実際に岩登り(フリークライミング)に熱中しはじめていた。多くのArtistがNYを中心としたアメリカ東部を目指していた時に、自分は同じアメリカでも、ネバダやアリゾナ、カリフォルニアの砂漠や山岳地帯を目指していた。美術とは何の関係もない…と言えばそのとおりだけれど、自分のいまにとってそのクライミング期はとても重要な意味を持っている。それは、この世界には岩壁が無数にあるということに気付いたこと。その岩のどれもが独特の特徴を持っていて、たとえ5メートルの高さしかない岩であっても、それを登ることができた時の喜びは他と比較できるようなものではないということを知った。思えば、いま自分がつくろうとしているMAZEKOZEという場は、その時に感じたあの喜びを自分だけでなく、同じ岩にへばりつくことによって感じる何かのための場づくりであるような気がしている。
自分は美術大学を通過して、美術やArtが持つ魅力と可能性を知った。そこで得た経験は自分のいまに大きく役立っているし、そのあり方や美術やArtといった仕組みに対して思うことはあってもそれを単に否定するつもりはない。とは言え、未だそれにとって8,000メートルの峰々を登頂することこそが頂点であり、そこへの注目度はその仕組みを保つために必要であることを忘れるべきではないと思う。
幼稚園・保育園でのお絵描き、小学校の図画工作、中学校の美術…。そもそも人間は何か思いを伝えたいと思っているし、誰もが絵を描いたり何かをつくることを本能的に望んでいる。しかし、〇〇さんは絵が上手いとか下手だとかと言われつつ、評価され、創造の場に点数が付けられる既存社会の仕組みによって、次第に美術が嫌いになってゆく人は実に多い。そしてやがて大人になると、「私はArtの専門家ではないのでArtのことはわかりません」と言うようになる…。こうしたことを考えれば、極めて有能で、いずれ優れたArtistになり得る人がいたとしても、このしくみの元では育たない可能性は多々あるし、それはすなわち、社会にとっての様々な問題を創造性によって解決するという可能性が閉ざされてゆくということではないだろうか…。美術・Artは、Artistを育むことだけが目的ではないことは言うまでもないけれど、それが何のためにそれがあるのか…という質問にいったいどれだけの人が答えられるだろうか。上手いとか下手を問うのではなく、感じたことを様々な方法によって表すことの大切さ。それは美術・Artのみならず、社会のあらゆる物事に接した時に、人が何を感じ、どう表したのかを想像することこそが、人と人とがこの社会を生きる上で最も重要な力だと言っても過言ではないと思う。8,000峰を登頂できる技術と才能を兼ね備えたた人達がいるだけでは、その努力や経験は社会に活かされない。この社会に生きる私たちが、美術やArtが技術の習得のためにあるのではない、ということに気付くことが出来なければ、8,000メートル峰とて所詮は絵に描いた餅にすぎないし、そこにいのちをかけて挑んだ登山家の死すら浮かばれないと思う。
『ポヨコ・竹節裕子 Something special 展』探しているものとは違う別の価値観をみつけた何か特別なもの達の絵画展。
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