「現実と幻想の境目」


 
 
新型コロナウイルスという出来事とは、この世の現実と幻想の境目を曖昧にしてしまった…というよりもむしろ、現実だと思い込んでいた社会が実は幻想でしかなく、もはや現実がどこにあるかについて気にも止めず、たとえ幻想の中であったとしても生きて行けるのならそれで良い、という意識が薄ぼんやりと、どこまでも広がって行く気配のことであるような気がしている。
SNSは幻想と現実の境目を繋ぐツールとして、SNSが普及し尽くした感のあるいまというタイミングと新型コロナウイルスの蔓延との間には少なからずの関係があるであろう、ということもまた。
 
 
一昨年、我が家の犬に悪性の腫瘍があることが判り、それ以来、何かと病院通いが増えてはいるものの、そんな家族でもある犬と暮らしながら、いまさらながら関心することは、いのちの限り迷うこと無く生きようとするその実直さ。
犬に限らず生物には生物固有の寿命があるにも関わらず人の年齢にあえて換算するのは人の都合でしかないけれど、少なくとも人よりも短い犬の一生だからこそ、人は犬の一生をつうじて生命の何たるかを感じることができるのだと思う。
自分はこの感覚こそが、人がコロナ禍から脱するために最も必要な感覚であり、幻想がつくり出す仮初めの心地良さをかなぐり捨て、人が街に繰り出すためにはこの感覚を如何につくるかこそが重要だと思っている。
 
 
10年前の今頃。
未曽有の大惨事の状況が次々と判明するにつれ、人は深い悲しみを突き付けられたその先に、生命の何たるかについてを、人それぞれが、それぞれの感覚として、感じていたはずだ。
目を背けようにも背けられない、現実から逃れようにも逃れられない悲しみの中、人は皆、現実の中に留まるしかなかったのだと思う。
あれからたった10年。
世界中を巻き込むコロナウイルスという未曽有の出来事によって、真実の在り処は何処にもなくともその現実は現実として存在できるという事実が露呈してしまったかに見える…。
現実と幻想の境目が限りなく曖昧な社会では、今まで信じられてきたすべてを幻想にすり替えることさえ可能で、そもそも真実を追及したところでこの社会は何も変わらないという気配が世間を覆ってしまっているにも関わらず、その気配は既にマスクによって覆い隠されてしまっているかにも見えるのは自分だけなのだろうか。
このたった10年間という年月の中で、人はなぜこうまで現実を受け止めきれなくなってしまったのか。
あの時、生命の儚さをあれほどまで感じていたはずなのに。
  
 
はじめてその本を手にしたのは12年前。
東京から生まれ故郷の長野市へと移り住んだ年だったと思う。 
そして、いまから10年前の今頃に読んだ記憶がある。
あれからいままで、10年の間に何度読んだかも既に忘れてしまった。
その本の最後にはこう書かれている。
 
 

いま世界は疲弊し、迷い、ぼろぼろにほころび、滅びに向かいつつある。
そんな中、つかみどころのない懈満な日々を送っている正常なひとよりも、それなりの効力意識に目覚めている阿呆者の方が、この世の生命存在としては優位にあるように思える。
わたしは後者の阿呆の方を選ぶ。
わたしはあきらめない。
 
藤原新也 
~メメント・モリ
Mémento-Mori 死を想え~

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