人は理路整然としたものごとや論理的なものごとよりも、見たことのないもの・感じたことのないものに対して心が動きやすい。
喜び、怒り、悲しみ、恐怖、驚き、嫌悪、諦め、などといった感情を、進化論的適応によって説明しようとする場合、恐怖や怒りのような基本的感情については可能でも、物事に触れることによっておこる微妙な感情の変化、またはその感情を引き起こす雰囲気によって起こる情緒的感情は説明しづらく、視野の外におかれがち。
心理学においては、不安や悲しみ、愛などの臨床的問題に関わる感情、あるいは表情と結びついている感情などには関心が集中するものの、これらの問題に結びつきにくい感情は研究の枠組みに入り難く、そうした感情の一つである「感動」は、明確な進化的起源をもたず、野生生活において特定の適応行動と結びつき難いと言われている。
とりわけこの感動と深い関係にあるとされる芸術ではあるものの、その実、芸術の何が人を感動させるのかについて、いわゆる芸術の専門教育を経験した自分ではあるけれど、それについて教わった記憶はない。
感動は現代社会のあらゆる側面で重要視され、もはやより多くの大衆の心を動かすために感動が演出されていることもまた事実。
昨年に開催が予定されていたオリンピックが今年へと延期されたものの、未だ世界は新型コロナによる混乱の只中に置かれたまま。その開催には否定的な意見が多いものの、いまのところ開催に向けて動きは止まっていない。
こうした現状やいまについて考えれば、そこには少なからず…、否、現代社会はそれほどまでに「感動」の重要性を、意識的であれ無意識的であれ、認識しているということなのだと思う。
と同時に、感動をもたらすものとしての芸術の役割はもはや消滅していると考えても良いほどで、であるからこそ、人にとっての感動とは何であるのか。なんのために感動はあるのかについてを、芸術の役割として考えるべき時にあると自分は強く思っている。
芸術のジャンルには現代美術、Contemporary artという分類があり、言葉としては現代の芸術ではあるものの、現代につくられた芸術が現代美術ということではなく、Contemporary artは、わかる人だけがわかればいい、社会の支持も、ましてや大衆の支持をも拒絶するかのような、高踏的な特定の芸術信者たちのみに顔を向け、芸術の目的は芸術の純粋化のためだけにあるかの如く、「芸術のための芸術」という教義こそが重要視される芸術であるかのように感じてしまうのは自分だけではないと思う。
芸術系大学や美術館が増え、大小様々な展覧会が常にどこかしらで開催されるいま。芸術をとりまく制度的な環境は十分すぎるほど整えられてはいるものの、Contemporary artに限らず、芸術(美術)はよくわからない、難しいものという社会的印象は一向に変わる気配はない。
そうした一方、アート市場では、そのよく解らなくて難しい芸術作品が驚くほどの高値で売り買いされている現実がある。
それとはいったいどういうことなのか。
芸術作品の評価基準を作品それ自体が失ってから久しく、かろうじて芸術家自身が芸術の評価基準となりながら、社会的には授賞制度や栄典顕彰制度が整えられ、そうした制度が作品の評価基準となって、優秀な芸術が美術館という名の殿堂入りを果たすという仕組みが形づくられている。
この仕組みによってかろうじて現代の芸術は芸術として生き延びているものの、芸術の評価を権威による承認に頼りつつ、その評価が作品の値段に反映されるという状況からすれば既に芸術は民衆から遠く離れた位置に置かれ、権威主義と資本主義によって守られ、制御されているということからすれば、既に芸術は壊滅状態にあると言ったとしてもけっして過言ではないと自分は思う。
とは言え、自分をいま・ここへと導いたもの。
それもまた芸術であることは否定できないしそのつもりもない。
芸術を取り巻く現実がどうであれ、かつて自分は芸術という西洋社会によってつくられた芸術概念を纏ったそれに心が動かされ感動したという事実がある。
あの時の自分の心を揺り動かしたものもまた芸術であり、その経験と感動がいまもなお自分を支えているし、芸術という概念が西洋という特殊な社会性と論理的な思考によってつくられた概念であるとしても、自分はいまもずっとその芸術によって気付かされるその力が、人がこの世に生きるために最も大切なものが何であるのかについてを理解するために必要な力であると信じている。
社会は未だ人類の進歩という幻想を追い求め、その途上を歩み続けようとしている。
だからこそ、芸術は原点に立ち戻り、人の心が動かすその瞬間に何があるのかを知る必要があるのではないか。
人は進歩しなければならないもの…という幻想を断ち切ったその時に心の中に沸き起こる感動。
それは太古の時代から受け継がれた人が人として感じことができるものだと思う。
その感動を遠ざけることも恐れる必要もないこと。それを伝えるのもまた芸術の大切な役割だと自分は思っている。
写真:荻原守衛 作 「女」
Exhibit in the National Museum of Modern Art, Tokyo (東京国立近代美術館). This artwork is in the public domain because the artist died more than 70 years ago. Photography was permitted in the museum without restriction.
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