隣駅にある、若い友人が運営するゲストハウスを使って開催されている展覧会 「antasy【F】igure~幻想造形展覧会」に出かけた。
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陶器によってつくられているとは思えない繊細で複雑な部分からなる幻想的、空想的な世界観。そうした世界観をファンタジーと表現することも判らなくはないけれど、そうした世界を前にしたとき、現実には起こり得ない安心感というものを信じていない自分に気付く。
それは否定とか拒絶ということでは無くて、幻想的、空想的なファンタジーと捉えられようとも、人の想像とは既にこの世に存在し得る証明。しかし私たちはその想像をファンタジーと呼ぶことによって、安心という柵によって囲まれた檻の中に閉じ込め、その外側から眺めようとしているのかもしれない。
自分はもう随分と長いこと、時間と空間の一体感について考え続けている。
自分にとって、人の想像から成る作品との出会いとは、好きとか嫌いではなく、何が優れているかはたいした問題でもなく、自分がその作品をどう自分を通過させることができるのか、その過程で何を感じることができるのかであって、作品としての存在はただそれだけで十分に価値があると思っている。
自分が捉えようとしている時間と空間の一体感とは、この世に存在するありとあらゆるものが、それぞれ独自の波動を持っているという認識が前提。
私たちが生きるこの世とは、そうした無数の存在が発する波動が互いに響き合ってつくられる現象であり、私たち人間は、そうした波動がある瞬間に、共振、共鳴したその時、「美しさ」という状態を伴ったものとして感じるのだ。
美とはこの世の全体を私たちが認識するために必要なものであり、この世の全体性が何らかの影響によって歪が生じた時に、その歪を修正するためにも美が機能していて、そうした意味からすれば、美とは人がこの世を生きるために必要な自己免疫的な機能を担っているのだと思う。
人の想像によって導き出されるファンタジーの世界観もまた、私たち人間が持つ美のセンサーが捉えるこの世の波動が共振・共鳴した現れであり、この世とは私たち人間が考えるよりも遥かに広く奥深いものであることの証拠だとも思う。
かつて経験したことのない不安と恐怖を伴った大きな歪が生じてしまっている いま。
人々が長い列をつくるその列の先にあるのは何なのか。
その列の先で、想像の自由と引き換えにもたらされる安心によって、美を感じる心を失ってしまわないことを願う自分がいる。
自分が自分であり続けるとはどういうことか。
人を生かすためには何が必要なのか。
幻想造形家kaoが想像するファンタジーをつうじて、この世を感じた、ひとときだった。
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